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さようなら、私の本よ!:大江健三郎を読む


自伝的対談「大江健三郎、作家自身を語る」の中で大江は、「さようなら、私の本よ」を、自分の作家活動の一つの頂点をなす作品だと言ったが、それはかれの作家活動の総仕上げだというような意味に聞こえた。この小説を書きあげた時、大江は七十歳になっていたわけで、おそらく自分の作家人生最後の小説になると考えたのではないか。これが最後の小説としての本になるだろうという予感が、「さようなら、私の本よ!」という題名に込められていたのではないか。実際には大江は、七十歳を過ぎても二本の長編小説を書いたので、これが最後の小説にはならなかったが、そこにはかれの作家活動を最終的に締めくくるというような気迫がこもっているように思える。

この小説のテーマは、単純化して言えば、反権力である。したがって政治的なメッセージが多く含まれている小説と言ってよい。大江にはもともとそういうところがあって、権力批判のメッセージを、エッセーのたぐいばかりでなく、小説のなかでも展開してきた。文学者には、政治を超越したタイプと、政治にこだわるタイプとがあるが、大江は政治にこだわるタイプであって、比較的若い頃から、政治的メッセージに溢れた作品を書いてきた。無論、「個人的な体験」のように、政治とはなんのかかわりも感じさせないものもあるが、代表作といわれる「万延元年のフットボール」はきわめて政治的なメッセージに富んだものであるし、「洪水は我が魂に及び」を始めとして、権力に立ち向かう若者たちを描いた作品が、大江の文学の大きな流れとなっている。「さようなら、私の本よ!」と題したこの小説は、大江のそうした流れの上に位置するものである。

この小説には、大江の分身のような人物椿繁が出て来る。この人物もまた、大江の四国の山の中を舞台にした一連の小説の登場人物のように、大江の周辺にいた人物ということになっているが、小説に出て来るのは、これが初めてだとアナウンスされる。というのも、大江の小説に出て来る人物にはみなそれなりのモデルがありそうであるのに、この椿という人物にはモデルはないようなのだ。だから、大江が新たに創造した人物というわけだろう。その人物を大江は、自分の分身として描いたのではないか。というのは、この小説の中の古義人(大江の分身)は、自分からは積極的に未来を切り開けないで、椿の設計した未来図に乗っかるだけなのである。古義人に足りないものを、椿によって補ったというところだろうか。

その設計図というのは、9.11のテロを世界規模で再現することにかかわるものだった。椿は建築家ということになっており、建築家としての能力をフルに使って、9.11テロに相当するような高層建物の爆破を世界規模で行う。自分が見本を示せば、それにならうものが続出するに違いない。そうなれば世界規模でテロが続発し、世界の邪悪な権力はマヒするに違いない。そういうとてつもない夢を椿は実現しようとし、大江の分身である古義人も、それに乗ろうというのである。古義人がなぜ、そんな物騒な計画に乗る気になったのか。それには説得力のある説明はない。ただ、ドストエフスキーの「悪霊」を持ちだして、椿はじめこの小説の登場人物が、「悪霊」の中の登場人物同様、得体の知れない情熱にとらわれてしまった、というような遠回しの言い訳がなされているのみである。

しかし、そうした勇壮な計画が実現することはなかった。世界規模でテロを起すには、それなりの闇のネットワークが必要だ。そうしたネットワークの一つが、この小説の中では「ジュネーヴ」という隠語で示されるのだが、それが椿らの爆破計画に難色を示すのだ。そのため椿らは、自分でできる範囲でテロ活動をしようと決意し、東京のあるビルを爆破する計画までたてるのだが、なんやかやと仲間内で議論するうちに、北軽井沢にある古義人の別荘を爆破するというような、矮小な話になってしまう。なぜ、北軽井沢の小さな別荘の爆破が、世界的に大きな影響をもたらすことができると、かれらは考えたのか。それにはもっともらしい理屈が付けられているが、いずれにしろ北軽井沢の別荘の爆破が、世界のテロリズムに大きな影響を及ぼすなど、まったく考え難い。

実際、北軽井沢の別荘は爆破されたのであるが、それが世界のテロリズムに何らかの影響を及ぼしたとはなっていない。当たり前である。つまりその爆破は、何らの政治的な影響を及ぼすことはなかった。せいぜい、爆破の首謀者である椿が、官憲から危険人物扱いされるようになったのと、古義人が変人扱いされるくらいが関の山だった。変人扱いという点では、古義人は、すでにそんな名声を得ていたのである。

そんなわけでこの小説は、反権力という大義を掲げながら、実際には左翼小児病的な矮小さを感じさせる程度でおさまっている。壮大な反権力、あるいは反抗小説とは、とても言えない。大江は、あるいは自分の作家活動の最後を飾るかもしれないこの小説を、なぜそのような中途半端なものにしたのか。大江はたしかに政治的な話題に夢中になるタイプだが、この小説の中でも強調されているように、自分自身は行動的なタイプではなく、したがって自ら進んで政治活動をリードしようというところはない。そういう腰の引けたところが大江にはあって、それについての羞恥心が、この小説の中の古義人の描き方となってあらわれたのではないか。どうもそんなふうに思える。



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