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大江健三郎のセックスレス小説:さようなら、私の本よ!


大江健三郎といえば、初期の短編小説以来、暴力とセックスに大きくこだわってきた作家だ。代表作である「万延元年のフットボール」や「同時代ゲーム」は、この二つの要素が見事に融合して、たぐいまれな世界を現出させていたものだ。ところが、彼自身が「レイトワーク」と呼ぶ晩年の連作「おかしな二人組」シリーズになると、暴力はともかく、セックス描写がほとんど、あるいは全くなくなる。二作目の「憂い顔の天使」では、ついでのようにセックスが言及されることはあっても、正面から描かれることはないし、「さようなら、私の本よ!」では、セックスという言葉も出てこない。セックスレス化が進んでいるのである。

大江の小説からセックスの要素が消えたのは、やはり年齢のせいだろう。大江自身が年をとったし、それに応じて、小説の主要なキャラクターも年をとった。なにしろ「おかしな二人組」三部作の主人公古義人は、大江の分身らしく、七十歳近い年齢の老人なのだ。人によっては七十を超えてなお性的活力を維持しているものもあるようだが、大江の場合には、自分自身が淡白になったのであろう、分身の古義人にも淡白な振舞いをさせている。

「さようなら、私の本よ!」には、二人の重要な女性が出て来る。清清とネイヨだ。清清は、ロシア人ウラジーミルの女友だちという役柄だが、この二人にセックスの雰囲気はない。かれらは純粋な観念だけで出来上がっているような人間として描かれている。ネイヨのほうは、「洪水は我が魂に及び」に出て来る伊奈子とよく似ている。伊奈子は、核シェルターに閉じこもった主人公たちのグループの面倒を見るかたわら、主人公の勇魚との間でセックスをした。ネイヨも、別荘の小屋に閉じこもっている古義人や武らの面倒を見るのであるが、しかし古義人とセックスすることはない。だいたい彼女は古義人をセックス能力のある男とは見ていないのだ。彼女がもしセックスしたくなったら、その相手は武やタケチャンに違いない。実際彼女は、かれらの一人ずつと、それぞれ二人きりになったりもするのだが、その場面でセックスが語られることはない。

というわけで、この小説は徹底してセックスレスなのだ。セックスの要素が消えてしまったら、後には何が残るのか。暴力、及びそれと結びついた政治的な意思だ。暴力は、セックスと並んで、大江の小説世界を彩ってきたもので、それがレイトワークに至るまで健在だということだろう。セックスの要素が消えたおかげで、より一層暴力が前景化してきたとも言える。しかしその暴力は、初期の頃の作品においてのように、暴力の為の暴力といった、むき出しの形はとらない。政治的な意思を実現する手段として語られる。その政治的な意思とは、権力への反抗である。それをテロを通じて実行しようとするものだから、その意思そのものが暴力的といえるのだが、それにしても、暴力のための暴力とまではいえない。

だいたい、大江健三郎という人間は、政治を語るのが好きな割には、行動的な人間ではない。どちらかというと、非行動的で、社会から一歩身を引いたところがある。それは大江自身が小説の語りの中で認めていることだ。そういう非行動的な人間が好んで暴力を語る。そのように語られる暴力は、圧倒的な物質的存在感を発散しないきらいがある。じっさい、大江の暴力についての語り方はかなり観念的である。この小説においては、その暴力は、椿繁がシナリオを書き、武とタケチャンがそれを演じるという形で発揮されるのだが、その描き方はかなり観念的である。暴力は、それが振るわれる現場を直視しながら、微視的に描かれるというのではなく、すでに振るわれた後で、懐古的に言及されるだけなのだ。だから、暴力の迫力ある描写はない。ここでの暴力は、即物的肌触りを感じさせるような暴力ではなく、観念的で抽象的な暴力である。読むものはそこに、手に汗握るような迫真性を感じ取ることはない。



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