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鈴木大拙「浄土系思想論」を読む


鈴木大拙が「浄土系思想論」を書いたのは昭和16年(1941)から17年(1942)にかけてのこと。書き終わったときには、72歳になろうとしていた。大拙はもともと禅の修行者・研究者として出発したのだが、老年を迎える頃に浄土系とりわけ真宗に深い関心を寄せるようになった。それには、51歳の年で真宗の大谷大学に招かれたということもあるが、なによりも、禅と真宗とに深い共通点があることに気づいたからだと思う。禅は、基本的には自力信仰であり、真宗などの浄土系信仰は他力信仰なので、両者は真逆のように思われがちだが、大拙は、自分自身の宗教的実践を通じて、両者には深い共通点があることに思い至った。それは、禅でいうところの涅槃と、真宗がいうところの浄土とが、非常に似通ったものであるということであった。涅槃も浄土も、ふつうは人間の死後の世界と考えられているが、大拙の考えでは、いづれも現世(大拙はそれを娑婆という)と異なったものではないということになる。ということは、人間は生きながらにして、涅槃とか浄土の境地に至ることが出来るということである。そのように確信した大拙は、晩年、禅と浄土特に真宗とを、同じ土俵の上で論じるようになる。

「浄土系思想論」は、そのような大拙の確信を敷衍してみせたもので、五つの論文からなる。それらについて簡単に解説すると次のとおりである。「極楽と娑婆」及び「浄土観・名号・禅」は「無量寿経」への注釈、「浄土観続稿」は貪婪著「浄土論註」への注釈、「他力の信心につきて」と「我観浄土と名号」は親鸞の「教行心証」への注釈という形をとり、いづれも、娑婆と浄土との関係について論じている。そして、浄土は娑婆とかけ離れたものではなく、相即の関係にあるとした。相即とは、両者それぞれ自立した別個のものでありながら、互いに無関係ではないこと、それどころか互いを前提としていること、したがって浄土とは、人間の死後の事柄ではなく、生きている間に実現さるべきことだということになる。生きていながら涅槃の境地に達するというのは禅の基本思想であるから、その点では、禅と真宗とは同じ土俵の上に立っているわけである。もっとも浄土系の中でも、法然の浄土宗やそれ以前の浄土信仰は、浄土を死後の世界のこととしており、その別世界から阿弥陀様が来迎するというふうに捉えているので、浄土が娑婆と相即していると考えるのは、真宗独自の立場といえる。だから大拙がここで浄土系思想と言っているのは、あくまでも真宗の思想なのである。その真宗の始祖の一人に位置づけられる貪婪については、ほかの浄土系思想も始祖と仰いでいるので、親鸞と貪婪とを並べて扱っているこの本書は、あえて真宗と言わず、浄土系思想と言ったのだと思う。

まず、冒頭の「極楽と娑婆」について。極楽とは浄土の別名であり、娑婆は我々が生きている現世のことをさす。浄土を彼土、娑婆を此土と言ったりもする。これらの概念セット、極楽と娑婆、浄土と現世、彼土と此土との関係について論じるのがこの小論の目的である。

極楽とはどのようなものかは別として、我々人間が極楽というものを考え出したのはなぜか、という疑問からこの小論は出発する。この疑問に対して大拙は、我々人間は、極楽という観念なしでは生きていけないように出来ているからだと答える。「娑婆と極楽とはどうしても離れられぬものである。穢土と浄土といってもよく、人間世界或いは地獄と天国といってもよく、地上と天上といってもよいが、この二つの相反した世界はどうしても分離できぬものである。苟も宗教的人間のいるところには、この二つがある」。こう大拙は言うのであるが、かれが言う宗教的人間とは、人間として本物の人間だという意味で、宗教的でない人間は人間とは言われぬのである。

人間が宗教的なものを求めるのは、人間の中にある霊性がそうさせるのだと大拙は言う。人間には本来、知性や感性のほかに霊性が備わっている。その霊性が宗教的な感情を呼び覚ます。その宗教的な感情は、知性では説明できぬ。知性は分別知であるが宗教的感情は分別知では説明できぬ。無理に説明しようとするとおかしなことになる。まともにみえる場合にも、無分別の分別としか言いようのないものになる。

このように大拙の宗教意識論は、霊性という各別の働きに支えられている。その霊性が、宗教的な感情を呼び覚まし、その宗教的な感情が極楽だとか浄土といったものを求めさせる。人間が極楽を求めるのは、人間としての本質に根差しているというのが、大拙の基本的な考えである。そうした考えは、ヨーロッパの神学にも指摘できるものだ。カントのような合理主義者でさえ、人間は神なしではすませられないように出来ていると考えた。だが、それは純粋理性では説明できぬので、実践理性による要請という形でつじつまをあわせた。純粋理性は構成的な理念にかかわるが、実践理性は統制的な理念にかかわる。その統制的な理念として神を位置付けることで、理屈で説明できぬことを、説明できたと擬制したのである。

以上は、人間がなぜ極楽というものなしではすまないか、についての議論である。次に、その極楽なるいかなるものかについての議論に移る。法然以前の浄土信仰は、極楽を死後の世界として説明していたが、親鸞は、極楽をこの現世で実現されるものとして捉えなおした。そこは、現世における修行を通じて、生きながら涅槃の境地にいたるとする禅の考えと似ているところだ。その似ている部分を足掛かりにして、大拙はかれ独特の宗教論を展開していくのである。


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