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四種法界と円融無礙


華厳思想の核心的概念として四種法界と円融無礙というものがある。四種法界の法界の意味は、法界縁起の法界をさすが、それは真理の根拠を意味する。根拠は原因とも言い換えられる。原因の因は因果の因でもある。仏教では、因果は縁起として語られる。だから、法界とは縁起によって成り立つ世界というような意義を持つ。

法にはまた、「もの」という意味もある。だからものからなっているこの世界を法界と呼ぶこともある。そこで、ものの世界としての法界と、真理の根拠としての法界との関係が問題となる。この関係を解き明かすのが、理事無礙とか事々無礙といった概念である。この概念は華厳に特有なものと言えるが、それを仏教の基本思想として捉えた井筒俊彦は、この概念にもとづいて東洋的な世界観の特徴を説明し、さらに西洋的な考えを含めた、人間の思想一般を説明する原理にまで高めたのであるが、ここではそれには深入りしないで、この思想の特徴を見てみたい。

四種法界の概念を最初に提起したのは、華厳宗初祖杜順である。杜順の書いたとされる「法界観門」という著作のなかで、その考えが述べられている。それによれば、真空第一、理事無礙第二、周偏含容第三という三つの観門(ものの見方)がある。真空第一とは、事物の本質は無自性にして空であることを説くものである。理事無礙第二とは、理と事の相即無礙を明らかにしたものである。また周偏含容第三とは、事物の世界の円融無礙なることを説いたものである。

華厳宗第四祖澄観は、杜順のこの考えを引き継ぎながら、四種法界と円融無礙の思想を全面的に展開した。まず、四種法界は、事法界、理法界、理事無礙法界、事々無礙法界として整理される。それら四種の法界が相即し融合すると主張するのが円融無礙の概念である。

事法界とは、現実に存在しているように見える事物の世界を言う。それには我々人間の存在も含まれる。要するに人間にとって現象としてあらわれるすべてのものが含まれている。これに対して理法界とは、現象を成り立たせている根拠のようなものである。西洋哲学では、イデアのようなものに相当するが、仏教的世界観では、理念的なものに実在性を認めることはない。仏教では、事物には本性はない、あるいは自性がないと見る。事物は縁起の結果であって、それ自体として存在するわけではない。それを空という。このように、事物を無自性・空として捉えるのが理法界の概念である。

理事無礙法界とは、事法界と理法界との相即円融を説くものである。事法界も理法界も、もともとは同じものを違った視点から見ているに過ぎないのであり、異なるものではない。無礙とは障害がないという意味であるが、互いに妨げあうことがないことをも意味している。したがって理事無礙法界とは、事法界と理法界とが、たがいに妨げあうことなく融合しあっていることを意味している。

事々無礙法界とは、仏の目から見た世界のあり方を言う。我々凡夫の目には、現象世界は、さまざまな自立した存在者から成り立っているように見えるが、実はそうではない。そのように見えるのは、人間がそのようにわざと見るからであり、それは人間の知性がもつ分節の働きによる。しかし分節によって生じたものは、仮の姿に過ぎないのであって、本来の世界は分節される以前の混沌とした姿で存在しているはずだ。そこではあらゆるものが相即・円融しあっている。それを一即多、多即一と言う。または円融無礙と言うのである。

こうした考えが、唯識派に由来していることは大いに考えられる。唯識派は、事物には自性はなく、心が生み出したものであって、しかも本来の姿では分節以前の円融無礙の姿にあるものを、わざと分節することで、自性をそなえた事物のおりなす世界として捉えようとする。それはそれで意味のないことではないが、それでは煩悩は脱却できず、われわれはいつまでも成仏できないと考えるのである。煩悩を脱却して悟りを得るためには、事物の存在が空であって、それらが互いに相即し円融無礙であることを知らねばならない、というのが唯識派の主張であり、それを華厳が取り入れたと見ることができる。



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