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無の探求<中国禅>:仏教の思想⑦


「仏教の思想」シリーズ第七巻は、「無の探求<中国禅>」と銘打って、中国禅を取り上げている。担当は、当時の禅研究の第一人者柳田聖山と哲学研究家の梅原猛。柳田が「禅思想の成立」と題して、中国禅の歴史的展開とその思想的な特徴の概観を示し、梅原が「絶対自由の哲学」と題して、中国禅の哲学的な分析を行っている。そのかたわら二人の対談を通じて中国禅の特色を掘り下げるといった具合だ。

タイトルに「無の探求」とあるとおり、かれらは中国禅の特徴を「無の探求」というところに見ているようだ。インドの仏教は空の探求から始まったと言うのが定説だが、それが中国に渡ってくると、探求の対象が空から無になる。それは中国人の民族性が働いた結果だというのがかれらの見立てである。中国人は、現実性を重視する民族なので、インド人のような高度に抽象的な思索は苦手である。すべて具象的なものに落とし込んで考えないと、思考の手がかりがつかめない。そこで空を理解しようとして、無を手がかりにする。無とは空以上に実体のないもののように受け取られるが、実は中国人にとっての無は、有の反対ということで、実はわかりやすい、具体的な概念なのである。そうした具体的な手がかりを通じて、仏教を捉えなおそうというのが、中国人の民族性ということらしい。

禅と浄土教は、ルーツは無論インドにあるが、実に中国的なものだという。とくに禅は、まったく中国的な仏教だとかれらは言う。禅以前の仏教は,だいたいが大乗系だが、すべてインド仏教の受け売りか、せいぜい換骨堕胎して多少の中国流味付けを施したものだった。ところが禅には、インド的なものの影響を脱したところがある。仏教であるから、無論インド的な土台に立っているわけだが、インド仏教が共通して持っていた世界観とか人間観を棚上げして、ひたすら個人のさとりに専念する傾向が強い。それは浄土も同じだ。インド仏教が非常に思弁的な傾向を持っているのに対して、中国仏教である禅と浄土はずばり実践的である。禅はひたすら座禅を組み、浄土はひたすら念仏を唱える。そうした実践こそが、個人をさとりに導くと考えている。

そうなった理由はいろいろあろうが、やはり中国土着の老荘思想の影響が大きいと考えているようだ。禅が中国で盛んになるのは、唐の時代の後半だが、その頃には伝統的な儒教倫理が後退して、老荘思想が盛んになってきた。そういう時代背景において、老荘思想の中核概念である無の思想が、禅に強いインパクトを与えた。インド仏教では、般若経が教えるような空の思想が中核概念だったのだが、空の思想というのは、この世のことをすべて因果とか業のつながりとして捉え、存在するものをそのものとして絶対視しないものだった。すべては相対的なのである。それに対して老荘の無の思想は、無とはいいながら、空虚なものではなく、有との対応において、実体的なものだった。実体的というのは、中国人にとっては、形があるということである。無にも、マイナスの次元ではあるが、形はあると老荘思想は考えた。そういう考えが入り込むことによって、中国の禅は、インド仏教とは異なる道を歩むようになった、というのがかれらの見立てである。

歴史上は、ダルマがインドの禅を中国に伝えたということになっている。これはおそらく後世の付会だろうとかれらは推測する。ダルマという人物は実在したのかもしれないが、かれの教えがそのまま中国禅になったというわけではないようだ。ダルマの衣鉢を担いだ人々が、ダルマの名において、中国独自の禅を発展させた。だからそれはダルマが体現していたであろうインド的な仏教とは非常に異なったものになった。ダルマが中国に渡ってきたのは北魏時代の末(500年頃)で、天台智顗よりも前の世代の人だが、禅が普及し始めるのははるか後代、唐代の半ば以降である。当初は、当時流行しだした華厳と結びついて北宗禅というものが流行ったが、やがて南宗禅がとって代った。南宗禅の開祖は慧能ということになっているが、中国の禅の系統はこの慧能の系列が支配した。日本に伝わった臨済宗も曹洞宗も慧能の法統をついでいる。

北宗と南宗の相違について、かれらは、北宗が仏教本来の思弁的な面を引きずっているのに対して、南宗のほうは、そうした思弁的な要素を切り捨てて実践いってんばりという面に求めている。また、修行についての考え方も違う。北宗は離念、南宗は無念を強調するというが、離念とは、心についた塵を去って本来の正常な心を取り戻すというような意味であり、無念とは、そもそもそのような払うべき塵などないのだから、ひたすら座禅すれば心本来の姿を取り戻せる、という考えである。無念を旨とする南宗禅は、ひたすら座禅すれば、おのずからさとりが開けると考える。その点では非常に楽天的なのである。

仏教は四諦の説にあるように、煩悩の自覚から始まって、それの克服を目指すという具合に、世界についての悲観的な見方と、厳しい修行とを内実としていたのであったが、禅にいたって非常に楽天的になった。座禅さえしておれば、さとりを得られる。そのさとりは涅槃とも言われるが、涅槃とは無我を意味する。原始仏教の考えでは、涅槃とは輪廻からの脱却を意味したのであるが、それが無我の境地にすりかわっているともいえよう。それはやはり中国人の国民性と、唐代後半における時代の風潮がしからしめたというふうにかれらは考えているようである。



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