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高崎直道「唯識入門」


唯識は中観とならんで大乗仏教思想の二大流派。瑜伽行派ともいう、瑜伽行とは禅定の実践、つまりヨガを通じてさとりを得ようとするものだ。中観が高度に理論的なのに対して、実践的なことが唯識の特徴だと高崎はいう。高崎は大乗起信論の現代語訳をしている(岩波文庫所収)。大乗起信論は大乗仏教入門というべき書物で、無論唯識の思想も盛られている。この「唯識入門」は、唯識思想について、踏み込んで説明したものだ。なかなかわかりやすい。

唯識は、かつては法相宗という形で大いに普及したそうだ。法相宗の寺院としては、興福寺や薬師寺が有名だ。法隆寺もその流れだという。唯識の思想は大乗仏教の基礎的教養とされているので、いまでは流派を超えて僧侶たちの修行の対象となっているそうだ。だから仏教の教養を深めたいと念ずる僧侶は、興福寺や薬師寺の世話になるのだそうだ。

唯識の思想は多くの部分で中観の思想と共通しているという。虚妄分別説はその最たるものだ。これは、意識のうちに現れる自我とか対象世界といったものは、実在するものではなく、意識の分別によって生まれた虚妄であり、その内実は空だとする考えである。ただ、中観が意識の働きも含めてすべてを虚妄だと言うのに対して、唯識は意識の働きは存在すると認める。自我や対象世界は実在しないが、それを生み出す意識の働きは存在する。すべてはその意識の働きの産物だ、と主張することから、唯識と呼ばれるようになったわけである(仏教では、心、意、識は同義)。

一方、唯識独自の考えも無論ある。ここではその独自の説を取りあげてみたい。まづ、アーラヤ識。アーラヤ識とは、わかりやすい言葉でいえば、深層意識ということである。人間の意識は重層的な構造をなしていて、表層意識の底に深層意識がある。その深層意識は潜性的なものとして伏在しており、それが顕性化することで表層意識の働きが生まれる。深層意識としてのアーラヤ識は、対象をそのままのかたちで一体的に把握するのであるが、それが顕性化すると、そこに分別つまり分節作用が働き、自我とか対象世界があたかも実在しているかのように錯覚させる。真に実在しているのはアーラヤ識の働きと、それが捉えた世界(真如という)であって、表層意識が生み出した対象世界は、実在しないという具合に考えるのが唯識の特徴である。

次に、自我の同一性。大乗仏教に共通する考えとして無我の思想がある。無我というのは文字通り、我というもの、それを仏教ではアートマンというが、そのアートマンすなわち自我は実在しないとする考えである。唯識も基本的には同じ考え方に立つ。つまり自我というものは実在しない、と。しかし、現象的には、自我は存在するかのように見える。私は、生まれてからいままでの時間の中で、同一の私として存在し続けてきた、という確信はゆるぎないものだ。だれもが、自分自身の存在に疑いをもつことはない。しかし、一方で無我といいながら、他方で自我の存在を確信している事態はどのようにして生ずるのか。その疑問に対して唯識はユニークな答えを出す。

自我の同一性は、自我の連続性の確信から生まれる。二つの時点における自我の現われが連続して継起することから自我の同一性の確信が生まれるわけである。あるいは、一つの同じ自我が、二つの時点においてそれぞれ異なった相において連続的に継起すると考えるわけだ。ところが仏教では、この連続性というものを認めない。二つの時点における自我の現われは連続してはいない。それぞれが断絶したかたちで独自にあらわれる。したがってこの二つの時点における自我の現われは、全く異なった自我の現われだということになる。無我を前提にすればそういうことになる。しかしこれでは自我の連続性と、それを基礎とする自我の同一性の思想は生まれない。どうすれば、無我の考えを自我の同一性の確信と調和させることができるか。

唯識は、この調和をアーラヤ識がもたらすと考える。表層意識における様々な現象の継起は、深層意識たるアーラヤ識が顕性化したものである。その顕性化した表層意識の内実は、虚妄分別の産物として実在性をもたず、したがってそこに成立する自我意識も虚妄であるが、つまり無我の状態であるが、深層意識たるアーラヤ識においては、ある時点での意識の働きは全面的に消え去ってしまうのではなく、その余韻ともいうべきものを残す。この余韻のことを薫習とか習気とかいっているが、要するに意識の働きの軌跡のようなものである。この軌跡が、アーラヤ識の働きに影響を及ぼす。ある時点でのアーラヤ識の働きは、次の時点でのアーラヤ識の働きに影響を及ぼすのである。この影響関係を、仏教では因果とか業とか呼んでいる。それがあるために、自我の同一性とか、対象世界の連続性とかの観念が生じる、という具合に唯識は考えるわけである。

アーラヤ識を舞台にした因果とか業の考えが、唯識独特の輪廻思想に結びつく。輪廻とは、同一の自我が永遠に生成を繰り返すという思想だが、それが成り立つには、自我の同一性を認めなければならない。ここで、先ほどと同じ問題に逢着する。つまり無我を前提としながら、自我の同一性を前提とした輪廻思想が、どのようにして矛盾なく成立するのか、という問題である。これの解決は、先ほどの議論と同様、アーラヤ識を持ちだすことで可能となる。先ほどの議論によれば、自我の同一性はアーラヤ識によって基礎づけられていたのであった。その場の議論では、このアーラヤ識とは、かなり個人的で、したがってスケールの小さな概念であった。だが輪廻転生の担い手としてのアーラヤ識ということになると、いきなり宇宙的で壮大なイメージを感じさせるものとなる。宇宙とは、無限のアーラヤ識が原子の如き究極的な単位となって、それが永劫に生成転化、つまり輪廻転生を繰り返すその舞台だというようなイメージを成立させるのである。こういう考え方は、ある点で、プラトンの宇宙観に通じるものがある。プラトンの宇宙観にあっては、魂が究極的な単位となり、それが永遠に生成を繰り返すというようなイメージが語られていた。プラトンの説は魂実在説である。それと同じような意味合いで、唯識はアーラヤ識実在説といえそうである。



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