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認識と超越


角川書店刊行の「仏教の思想」シリーズは十二巻からなっていて、第四巻「認識と超越」は唯識思想について論じている。論者は仏教学者服部正明と哲学者上山春平。服部が唯識思想の哲学的側面を論じ、上山が実践的側面を担当するという具合になっている。多少煩瑣な印象を受けるが、唯識思想の歴史的な位置づけや、特徴を丁寧に説明している。

まず服部の担当部分。服部はヴァスパンドゥ(世親)の著作(唯識二十論、唯識三十頌など)を中心に唯識思想を論じる。その際に、説一切有部を始めとした小乗思想とかその背景になっているインド古代思想(六派哲学という)との関連について事細かく指摘するのだが、ここではそういう部分は捨象してヴァスパンドゥ自身の考えに焦点をあてたい。また、唯識は瑜伽行派によって唱えられたこともあり、ヨガを中心にした実践と深い関連をもつが、それもここでは脇へおくことにする。

世親は、唯識二十論において、唯識の根本思想である表象主義(外界非実在説)を論じ、唯識三十頌などによって、その表象の根拠でありかつ輪廻の担い手であるアーラヤ識を論じた、というふうに服部は概説している。表象主義というのは、我々の意識の対象であると思われているもの(外界)も、それを意識している自我というものも存在しない、とする考えである。外界が存在しないとする考えは、中観派もすでに空論という形で展開していたが、唯識派のユニークな所は、それらを意識の所産とみることにある。外界や意識の担い手としての自我は存在しないが、それらが意識されていることは間違いないので、意識そのものは存在する、という見方である。意識だけが存在するとすることから唯識と称されるわけである。服部は唯識派のこうした考えを、上山との対話のなかで、バークリーの唯心論のようなものと認めている。

外界の非実在を唯識派は夢のたとえを用いて説明する。夢を見ている最中、我々はそれを本当のもの、つまり存在している事態として考えているが、夢から覚めると、実在しているものではないと気付く。それと同じように、我々が実在性を疑っていない外界の事物も、実は意識の産物なのだ。我々は、日常の意識ではそれに気が付かないが、より高度の意識の次元に立てば、それが非実在的なものであることを理解するはずだ、というのである。そういう高度な次元に達するには修業が必要だ。その修業を経たうえで、我々はそういう次元に立つことができる。その次元をヴァスパンドゥは涅槃というわけである。涅槃の問題はきわめて実践的なことがらなので、ここでは細かくは触れない。

アーラヤ識には、大きく二つの働きがある。ひとつは意識の根拠としての働き、一つは輪廻の担い手としての働きである。まずは、意識の根拠としての働きについて。外界は実在するものではなく、単に意識の産物だと言ったが、ではその意識はどのようにしてできるのか。それに応えるのがアーラヤ識の説である。アーラヤ識とは、単純化していうと深層意識あるいは潜在的な意識のことをいう。そのアーラヤ識が働くことによって、意識における潜性的なものが顕在化して、日常的な意識が生じる。つまりアーラヤ識が顕在化することで日常的な意識が生じるわけである。その場合、顕在的な意識の内容は、外界とは何のつながりももたない。常識的には、外界の事物が原因となって意識の内容があらわれるというふうに考えられているが、それは間違いで、外界と思われているものは、あくまでもアーラヤ識に潜性的に含まれていたものが、顕在化したに過ぎないのだ。だが、アーラヤ識に潜性的に含まれているものはどこから来たのか。ヴァスパンドゥはここで、仏教に特徴的な教説である業の思想を持ち出す。業というのは、とりあえずは因果の働きによるものだ。人間は永劫に輪廻を繰り返すが、前世以前に体験したことが因果の働きによってアーラヤ識に蓄えられる。その蓄えられたものが原因となってあらたなものを生み出す。それが顕在的な意識の内容になる、というふうに考えるのである。

アーラヤ識のアーラヤとは貯蔵するもの、蔵というような意味だそうだ。そういう意味合いで、たとえばヒマーラヤは雪の貯蔵処をさすという。同じような意味で、アーラヤ識は意識の構成要素を蓄えているところだということになる。意識の根源、それがアーラヤ識なのである。そういう意味では、アーラヤ識は単に深層意識とか潜在意識とかにはとどまらない、意識を生みだすエンジンのような働きをするわけである。

ついで、輪廻の担い手としての働き。ヴァスパンドゥは、意識の働きを連続したものとは考えない。意識の内容は、一瞬一瞬で異なっている、と考える。これを識の変化と呼んでいる。意識は現れた瞬間に消滅する。消滅すると、その痕跡をアーラヤ識に残す。そのアーラヤ識の内容が原因となって次の意識内容を生みだす。人間の意識の流れは、それの繰り返しだとするのがヴァスパンドゥの基本的な考え方である。意識がその痕跡をアーラヤ識に残すことを、薫習という。この薫習がアーラヤ識を輪廻の担い手とするのである。

人間は死んでもまた次の生命を生きる、とするのが輪廻の考えだ。人間は悟りを開いて涅槃に達するまでは、ほぼ永久に輪廻を繰り返す。その主体となるのがアーラヤ識である。アーラヤ識はほぼ永久に消滅することはなく、さまざまな意識主体を次々と乗り移って、ほぼ永久に存在し続けると考えられる。ある人間のアーラヤ識は、その人間を通じてさまざまな体験をし、その体験が薫習を通じてアーラヤ識に蓄積される。その蓄積物が、人間の意識の内容を形成するのである。だから、我々人間には、現世に生れて以降の経験だけではなく、前世の経験も業という形を通じて働きかけてくるのである。この過程は、ほぼ永久に続く。それを絶ち切るのは涅槃の境地である。涅槃の境地に達することで、我々は輪廻から解放される、というふうにヴァスパンドゥは考えるのである。

涅槃との関連において、ヴァスパンドゥは如来蔵思想と唯識の関係について触れている。如来蔵思想とは、我々衆生にも仏と同じような真如があるとする考えである。真如とは存在の本来のあり方というような意味だが、我々凡人にとっては、それが本来の姿ではなく、間違った姿で現れている。その原因は、汚れによって真如が汚染されていることにある。だからその汚染を取り除けば、我々にも仏と同じ真如が実現する。それを可能にするのが悟りであり、その結果涅槃に達することだと、ヴァスパンドゥは言うのである。(ヴァスパンドゥは日本では世親の名で知られている。奈良の興福寺には、運慶の手になる世親とその兄無着<アサンガ>の肖像が安置されている。興福寺は唯識法相宗の寺なので、無着と世親を教祖としているわけだ)



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