日本語と日本文化


夢応の鯉魚(二):雨月物語


 我此の頃病にくるしみて堪がたきあまり、其の死したるをもしらず、あつきこゝちすこしさまさんものをと、杖に扶けられて門を出れば、病もやゝ忘れたるやうにて篭の鳥の雲井にかへるこゝちす。山となく里となく行々て、又江の畔に出づ。湖水の碧なるを見るより、現つなき心に浴て遊びなんとて、そこに衣を脱ぎ去て、身を跳らして深きに飛び入りつも、彼此に游びめぐるに、幼より水に狎れたるにもあらぬが、慾ふにまかせて戲れけり。今思へば愚なる夢ごゝろなりし。

 されども人の水に浮ふは魚のこゝろよきにはしかず。こゝにて又魚の遊びをうらやむこゝろおこりぬ。傍にひとつの大魚ありていふ。師のねがふ事いとやすし。待たせ玉へとて、杳の底に去くと見しに、しばしして、冠装束したる人の、前の大魚に胯がりて、許多の鼇魚を牽ゐて浮び來たり、我にむかひていふ。海若の詔あり。老僧かねて放生の功徳多し。今江に入りて魚の遊躍をねがふ。權に金鯉が服を授けて水府のたのしみをせさせ玉ふ。只餌の香ばしきに眛まされて、釣の糸にかゝり身を亡ふ事なかれといひて去りて見えずなりぬ。不思義のあまりにおのが身をかへり見れば、いつのまに鱗金光を備へて、ひとつの鯉魚と化しぬ。

 あやしとも思はで、尾を振り鰭を動かして心のまゝに逍遥す。まづ長等の山おろし、立ゐる浪に身をのせて、志賀の大湾の汀に遊べば、かち人の裳のすそぬらすゆきかひに驚されて、比良の高山影うつる、深き水底に潛くとすれど、かくれ堅田の漁火によるぞうつゝなき。ぬば玉の夜中の潟にやどる月は、鏡の山の峯に清みて、八十の湊の八十隈もなくておもしろ。沖津嶋山、竹生嶋、波にうつろふ朱の垣こそおどろかるれ。さしも伊吹の山風に、且妻船も漕ぎ出れば、芦間の夢をさまされ、矢橋の渡りする人の水なれ棹をのがれては、瀬田の橋守にいくそたびが追はれぬ。日あたゝかなれば浮び、風あらきときは千尋の底に遊ぶ。 


(現代語訳)
「わしは最近病に苦しんで、耐え難いあまりに、自分が死んだとも知らず、熱をすこし冷まそうと、杖をついて門を出たのだったが、病気になったのも忘れたように爽快な気分になり、籠の鳥が大空に帰ったような心地がした。山となく里となく進みゆき、また水の辺に出た。その水の青さを見るにつけ、夢見心地に泳いで遊ぼうと、その場に衣を脱ぎ捨て、身を躍らして水に飛び込みつつ、かれこれ泳ぎまわるうち、幼い頃より泳ぎ上手ではないのだが、思い切り泳ぎを楽しんだのじゃ。今から思うと愚かな夢のような心地じゃった。

「しかし人が水に浮かぶのは、魚のようにはうまく参らぬ。そこで今度は魚が羨ましくなった。そこに一匹の大魚がそばにやって来ていうには、『和尚の願いは簡単にかないます、ちょっとお待ちください』、そう言って暗い水底に降りていったが、しばらくして、冠装束の立派な人がその大魚に跨り、多くの小魚を従えて浮かんできた。そしてわしに向かって言うには、『海の神のご託宣がありました、あなたはかねて生き物を救う功徳をおおく積まれ、いまこうして水の中で自由に泳ぎまわりたいと願っておられる、そこで金鯉の服を授けて水中を自由に泳ぎまわれるようにしてやろう、ということです。ただ餌にだまされて釣り糸にかかり身を滅ぼすことのないよう気をつけなされ』。そういって姿を消したのじゃが、不思議のあまりに己が身を顧みると、いつの間にか金色の鱗をまとい、一匹の鯉魚に変身しておったのじゃ。

「不思議とも思わずに、尾を振り鰭を動かして心のままに泳ぎ回った。まず長等の山おろしに立ち騒ぐ波に乗り、志賀の大湾の汀に遊べば、汀を歩いてゆく人が裾を濡らすのに驚き、比良の高山の影が映る深い水底にもぐろうとするが、堅田の漁火を見るとそちらへ寄っていってしまうのじゃ。夜中の潟に宿った月は、鏡の山の峯に澄み渡り、八十の湊をくまなく照らしておった。沖津嶋山や竹生嶋では、波に朱色の垣がうつろっていて大いに驚かされた。伊吹の山風に渡し舟が漕ぎ出すと、芦間でまどろんでいた夢をさまされる。矢橋の渡りの船頭の操る棹を逃れ、瀬田の橋守に何度も追われた。日が暖かいと水面に浮かび、風が荒いと水底で遊んだ。


(解説)
中段の部分では、僧侶が自分の死んだときに体験した事柄が語られる。それは、日頃の念願がかなって、自分が魚に変身し水中を自由に泳ぎまわることができたということだった。こうした変身願望は、荘子の「胡蝶の夢」でもテーマになったわけだが、荘子はその他に魚への変身願望についても語っている。秋成はそうしたものを念頭に置きながらこの変身物語を書いたのだろう。

魚に変身した僧が、魚の目で水中からの眺めを見たところが描かれる。それは、三井寺周辺の湖沼の眺めで、秋成は数々の歌を下敷きにしながら、景色の流れを道行風に語っている。




  
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