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夢応の鯉魚(一):雨月物語を読む


 むかし延長の頃、三井寺に興義といふ僧ありけり。繪に巧なるをもて名を世にゆるされけり。嘗に画く所、佛像山水花鳥を事とせず。寺務の間ある日は湖に小船をうかべて、網引釣する泉郎に錢を与へ、獲たる魚をもとの江に放ちて、其魚の遊躍を見ては画きけるほどに、年を經て細妙にいたりけり。或ときは繪に心を凝して眠をさそへば、ゆめの裏に江に入て、大小の魚とともに遊ぶ。覺れば即見つるまゝを画きて壁に貼し、みづから呼て夢應の鯉魚と名付けり。其繪の妙なるを感でて乞ひ要むるもの前後をあらそへば、只花鳥山水は乞にまかせてあたへ、鯉魚の繪はあながちに惜みて、人毎に戲れていふ。生を殺し鮮を喰ふ凡俗の人に、法師の養ふ魚必しも与へずとなん。其の繪と俳諧とゝもに天下に聞えけり。

 一とせ病に係りて、七日を經て忽ちに眼を閉ぢ息絶てむなしくなりぬ。徒弟友どちあつまりて歎き惜みけるが、只心頭のあたりの微し暖なるにぞ、若しやと居めぐりて守りつも三日を經にけるに、手足すこし動き出るやうなりしが、忽ち長嘘を吐きて、眼をひらき、醒めたるがごとくに起あがりて、人々にむかひ我人事をわすれて既に久し、幾日をか過しけん。衆弟等いふ。師三日前に息たえ玉ひぬ。寺中の人々をはじめ、日比陸まじくかたり玉ふ殿原も詣で玉ひて葬の事をもはかり玉ひぬれど只師が心頭の暖なるを見て、柩にも藏めでかく守り侍りしに、今や蘓生り玉ふにつきて、かしこくも物せざりしよと怡びあへり。興義點頭きていふ。誰にもあれ一人檀家の平の助の殿の舘に詣でて告さんは、法師こそ不思識に生き侍れ。君今酒を酌み鮮き鱠をつくらしめ玉ふ。しばらく宴を罷めて寺に詣でさせ玉へ。稀有の物がたり聞えまいらせんとて、彼の人々々のある形を見よ。我詞に露たがはじといふ。使ひ異しみながら彼の舘に徃きて其の由をいひ入れてうかゞひ見るに、主の助をはじめ、令弟の十郎、家の子掃守など居めぐりて酒を酌みゐたる。師が詞のたがはぬを奇とす。助の舘の人々此の事を聞きて大に異しみ、先づ箸を止めて、十郎掃守をも召し具して寺に到る。

 興義枕をあげて路次の勞ひをかたじけなうすれば、助も蘓生の賀を述ぶ。興義先づ問ひていふ。君試みに我がいふ事を聞せ玉へ。かの漁父文四に魚をあつらへ玉ふ事ありや。助驚きて、まことにさる事あり。いかにしてしらせ玉ふや。興義、かの漁父三尺あまりの魚を篭に入て君が門に入る。君は賢弟と南面の所に碁を囲みておはす。掃守傍に侍りて、桃の実の大なるを啗ひつゝ奕の手段を見る。漁父が大魚を携へ來るをよろこびて、高杯に盛りたる桃をあたへ、又盃を玉ふて三献飮ましめ玉ふ。鱠手したり顏に魚をとり出て鱠にせしまで、法師がいふ所たがはでぞあるらめといふに、助の人々此の事を聞きて、或は異しみ、或はこゝち惑ひて、かく詳なる言のよしを頻りに尋ぬるに、興義かたりていふ。


(現代語訳)
むかし延長の頃、三井寺に興義という僧があった。絵がうまいことで名を知られていた。つねづね描くところは、仏像・山水・花鳥などではなかった。寺の仕事の合間に、湖に船を浮かべて、網引きや釣りする者に銭を与え、とった魚をもとの水の中に放ち、その魚の泳ぎまわるさまを見て描いた。そのうち年々巧妙になっていった。ある時は、絵を心に念じて眠りに陥ると、夢のなかで水中に入り大小の魚とともに遊んだ。目が覚めれば夢に見たままを描いて壁に飾り、それを夢応の鯉魚と名づけた。その巧妙なさまを感心して乞い求めるものがあれば、花鳥・山水は求めに応じて与えたが、鯉魚の絵はひたすら惜しんで与えなかった。そして誰にでも戯れに言うには、生を殺し鮮を喰う凡俗の人には、法師の養う魚を与えるわけにはいかんと。絵も冗談も天下に知られるところとなった。

ある年病気になり、七日を経てたちまち目を閉じて息絶えて死んでしまった。弟子たちが集まって嘆き惜しんだが、ただ胸のあたりがまだ暖かかったので、もしやと思ってそのまま様子を見守り三日がたったところで、手足をすこし動かしたと思うや、たちまち長い息を吐いて、目を開き、目覚めたように起き上がると、人びとに向かって、「わしは人事を忘れて大分たつが、そうなってから何日になるだろうか」と言った。弟子たちは応えて、「和尚様は三日前に息が絶えました、寺中の人びとをはじめ、日頃付き合いのあった方々もお見舞いに集まり、葬儀の段取りなど話し合ったのですが、和尚様の胸のあたりが暖かかったので、棺にもおさめずお守りしていましたところ、いまこうして生き返りましたので、葬らなくてよかったと言って喜んでいたところでございます」と言った。それを聞いた興義はうなづきながら言った。「誰でもよいから、檀家の平の助のところに行って伝えてくれ。和尚が不思議にも生き返りました。お宅では今酒を酌み新鮮な刺身を作っておられるが、しばらく中断して寺にお出で下さい。珍しいお話を和尚からお聞かせしますから、そう言ってあの人たちの様子を見て見なさい、わしのいま言っている通りだろうから」。使いのものが不思議に思いながら平の助の屋敷に行って中を伺ったところ、主人をはじめ、弟の十郎や家の子郎党が車座になって酒を酌み交わしている。その様子が和尚の言うとおりなので、不思議に思ったところ、平の助の屋敷の連中も使いの話を聞いて大いに不思議に思い、すぐに箸をおくと、一同で寺にやって来た。

興義が枕から頭をあげて平の助に来てくれた礼を言うと、平の助も和尚が生き返ったお祝いを述べる。そこで興義がまず、「ちょっとわしの言うことを聞いて欲しい、あの猟師の文四から魚を買ったことがありますか」と問うと、平の助は驚いて、「まことにそういうことがありましたが、どうしてそれをお知りなのですか」と言う。興義は続けて言うには、「あの猟師が三尺余りの魚を籠に入れてあんたの家の門に入る。あんたは弟さんと南面のところで碁盤を囲んでござった。掃守がそのそばで大きな桃の実を食いながら囲碁の勝負を見ている。あんたは猟師が大魚を持ってきたのを喜んで、高杯に盛った桃を与え、また杯を与えて三杯飲ませなさった。そこへ料理人が得意顔で魚を刺身にした。どうです、わしのいうところと少しも違わぬでしょう」。こう和尚が言うと、平の助たちは、或はあやしみ、或はとまどって、こんなに詳しく知っている理由をしきりに尋ねた。そこで興義は語って聞かせたのだった。


(解説)
「夢応の鯉魚」は、生死の境を往来した人の話である。その人は一旦死んだのだが、死んでいる最中に一匹の鯉となって水の中を自由に泳いでいた。魚となって泳ぐことは、その人の潜在的な願いであったのだが、それが実現したのは死後のことだった。ところがその人は奇跡的に生き返り、死んでいる最中に起きたことを周りの人びとに話して聞かせる。周りの人びとはその話を聞いて大いに感心する、というような筋書きの話である。

この話には原典のあることが指摘されている。それは中国の白話小説で、その中から二つの物語を参照して秋成がアレンジしたのだと考えられる。ひとつは白話小説集「醒世恒言」中の「薛録事魚服証仙」という短編小説、もうひとつは「古今説海」中の「魚服記」で、これは前者の話の原型となったものとされる。これらの話の中では、主人公は官吏ということになっているが、秋成は三井寺の画僧興義に翻案したわけである。

中国の原典は、中国人好みの話である。中国には荘子の胡蝶の夢以来、夢と現実の境を往来するという話が語られてきたわけだが、この話もその系統に属するものということができよう。胡蝶の夢では、夢のなかで蝶に変身する話が語られるが、この話では、死んで魚になるとこが語られるわけである。

冒頭の部分では、三井寺の僧興義が、常日頃魚を描くことが好きだったということ、その僧があるとき頓死したものの三日の後に生き返ったことが語られたあと、その僧が死んでいるうちに体験したことを人びとに話したがっているらしいことが語られる。その話の内容というのが、日頃の趣味が嵩じて自分自身魚となり、水の中を自由に泳ぎまわったことなど、魚としての体験であるらしいことが匂わされる。

なおこの物語の時代設定としての延長の頃とは、醍醐天皇の時代(十世紀はじめ)である。


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