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浅茅が宿(三):雨月物語


 此の時、日ははや西に沈みて、雨雲はおちかゝるばかりに闇けれど、舊しく住みなれし里なれば迷ふべうもあらじと、夏野わけ行くに、いにしへの繼橋も川瀬におちたれば、げに駒の足音もせぬに、田畑は荒たきまゝにすさみて、舊の道もわからず、ありつる人居もなし。たまたまこゝかしこに殘る家に人の住むとは見ゆるもあれど、昔には似つゝもあらね。いづれか我が住みし家ぞと立ち惑ふに、こゝ二十歩ばかりを去りて、雷に摧かれし松の聳えて立てるが、雲間の星のひかりに見えたるを、げに我が軒の標こそ見えつると、先づ喜しきこゝちしてあゆむに、家は故にかはらであり。人も住むと見えて、古戸の間より燈火の影もれて輝々とするに、他人や住む、もし其の人や在すかと心躁しく、門に立ちよりて咳すれば、内にも速く聞とりて、誰そと咎む。いたうねびたれど正しく妻の聲なるを聞きて、夢かと胸のみさわがれて、我こそ歸りまゐりたり。かはらで獨自淺茅が原に住みつることの不思議さよといふを、聞きしりたればやがて戸を明るに、いといたう黒く垢づきて、眼はおち入りたるやうに、結げたる髪も脊にかゝりて、故の人とも思はれず。夫を見て物をもいはで潸然となく。

 勝四郎も心くらみて、しばし物をも聞えざりしが、やゝしていふは、今までかくおはすと思ひなば、など年月を過すべき。去ぬる年京にありつる日、鎌倉の兵乱を聞き、御所の師潰しかば、総州に避けて禦ぎ玉ふ。管領これを責むる事急なりといふ。其の明雀部にわかれて、八月のはじめ京を立ちて、木曾路を來るに、山賊あまたに取りこめられ、衣服金銀殘りなく掠められ、命ばかりを辛勞じて助かりぬ。且里人のかたるを聞けば、東海東山の道はすべて新関を居ゑて人を駐むるよし。又きのふ京より節刀使もくだり玉ひて、上杉に与し、総州の陣に向はせ玉ふ。本國の邊りは疾に燒きはらはれ馬の蹄尺地も間なしとかたるによりて、今は灰塵とやなり玉ひけん、海にや沈み玉ひけんとひたすらに思ひとゞめて、又京にのぼりぬるより、人に餬口ひて七とせは過しけり。近曾<このごろ>すゞろに物のなつかしくありしかば、せめて其の蹤をも見たきまゝに歸りぬれど、かくて世におはせんとは努々思はざりしなり。巫山の雲、漢宮の幻にもあらざるやとくりことはてしぞなき。

 妻涙をとゞめて、一たび離れまいらせて後、たのむの秋より前に恐ろしき世の中となりて、里人は皆家を捨て、海に漂ひ山に隱れば、適に殘りたる人は、多く虎狼の心ありて、かく寡となりしを便りよしとや、言を巧みていざなへども、玉と碎けても瓦の全きにはならはじものをと、幾たびか辛苦を忍びぬる。銀河秋を告ぐれども君は歸り給はず。冬を待ち、春を迎へても消息なし。今は京にのぼりて尋ねまいらせんと思ひしかど、丈夫さへ宥さゞる関の鎖を、いかで女の越ゆべき道もあらじと、軒端の松にかひなき宿に、狐梟を友として今日までは過しぬ。今は長き恨みもはればれとなりぬる事の喜しく侍り。逢ふを待つ間に戀死なんは人しらぬ恨みなるべしと、又よゝと泣くを、夜こそ短きにといひなぐさめてともに臥しぬ。


(現代語訳)
その時、日ははや西に沈み、雨雲が落ちかかるほどに暗かったが、久しく住み慣れた里であるから迷うこともなかろうと、夏野を分け行くに、古い継橋も川に落ちてしまい、道理で馬の足音もしない。田畑は荒れ放題に荒れ、昔の道も見分けができず、もとあった人家も無い。たまたまそこかしこに残っている家には人の住んでいる様子もあるが、以前とは似てもつかない。どこが自分の住んでいた家かと、たち惑っているうちに、二十歩ばかり離れたところに、雷に砕かれた松の木が立っているのが、雲間の星の光に照らされて見えた。あれこそわが家の印だと、まづうれしい気持になって歩み寄れば、家は昔のままであった。人も住んでいると見えて、古戸の闇より灯火の影が明るく見える。他人が住んでいるのだろうか、それとも我が妻がいるのだろうか、そう思うと心が騒ぎ、門に立ち寄って咳払いをすると、なかでも早速聞き取って、誰かと問いかけてくる。たいそう老けてはいるが、まさしく妻の声を聞き、夢かと胸騒ぎがして、「私が帰ったぞ、変らずに一人で浅茅が原に住んでいることの不思議さよ」と言ったところが、相手はその声を聞き知っているとみえて、戸をあけた。その顔はたいへん黒く垢づいて、目は落ちくぼみ、結んだ髪も背中にかかって、もとの人とも思えないほど。夫を見て物もいわず、さめざめと泣いた。

勝四郎も心が動転し、しばらく物も言えなかったが、しばらくして言うには、「今お前がこうして無事でいると思ったならば、どうして他国で年月を過ごしたものか。先年京にいた時に、鎌倉の兵乱を聞き、公方の軍が壊滅して下総に逃げ、管領の方ではこれを攻めるのに急だと聞いた。その朝雀部に別れて、八月の初めに京を立ち、木曽路に来たところが、大勢の山賊に囲まれて、衣服金銀残らず奪われ、命ばかりかろうじて助かった。そこで里人の噂を聞くと、東海東山の道はすべて新関を設け、人をとどめているそうだ。また京より節刀使が鎌倉に向かい、上杉に加勢して下総の公方の陣に向かうという。故郷のあたりはとっくに焼き払われ馬のひずめの音がひっきりなしというので、もはや灰燼と化しただろう、海に沈んだかもしれぬとひたすら思いこみ、再び京に上ってから、人の世話になりながら、七年を過ごした。この頃になって、しきりに故郷が懐かしくなったので、せめてその跡を見たいと帰ってきたが、まさかお前が生きているとはつゆも思わなかった。巫山の雲、漢宮の幻ではあるまいか」。こう言いながら果てしなく繰り言を述べた。

妻は涙をとどめて言った。「ひとたびお別れしてから、待ち望んでいた秋が来る前に恐ろしい世の中になって、里人はみな家を捨て、海に漂い山に隠れ、たまたま残った人の多くは虎狼の心を持ち、わたしが独り身なのを都合よくとり、言葉巧みに誘惑しましたけれど、玉と砕けても、醜い瓦のようにはなるものかと、何度も辛苦を忍びました。銀河が秋を告げても、あなたは帰ってこない。冬を待ち、春を迎えても消息がない。今は自分で京に行き探そうと思いましたが、丈夫な男でさえ通れない関所の守りを、どうして女の身で超えてゆく道があろうかと、軒端の松のように待っても甲斐なき宿に、狐梟を友として今日まで過ごしました。今は長い怨みも晴れた心地がしてうれしく思います。お会いするのを待っている間に恋い死んでしまったら、苦しみをわかってもらえずに恨めしいことでしょう」。そう言って妻はさめざめと泣いたので、「夜は短いのだから」と言い慰めて、二人ともに伏したのだった。


(解説)
勝四郎が、下総の真間にある故郷の村に戻ってくると、村は荒れ放題になり、もと住んでいた人は誰もみかけない。やっとの思いで、昔自分が住んでいた家を見出し、近づくと人の気配がする。誰かと思えば、死んだと思い込んでいた妻の宮木であった。

驚きながらも喜んだ勝四郎は、宮木に向かって今までのことを語る。宮木のほうも、夫が去ったあとどんなに心細かったか、諄々と語る。このあたりの二人のやりとりは、「愛卿伝」よりは、今昔物語の巻二七第廿四「人妻、死して後に、本の形に成りて旧夫に會ひし語」を参照している。


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