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浅茅が宿(四):雨月物語


 窓の紙松風を啜りて夜もすがら凉しきに、途の長手に勞れうまく寢ねたり。五更の天明けゆく比、現なき心にもすゞろに寒かりければ、衾かづかんとさぐる手に、何物にや籟々<さやさや>と音するに目さめぬ。面にひやひやと物のこぼるゝを、雨や漏りぬるかと見れば、屋根は風にまくられてあれば、有明月のしらみて殘りたるも見ゆ。家は扉もあるやなし。簀垣朽ち頽れたる間より、荻薄高く生ひ出て、朝露うちこぼるゝに、袖濕ぢてしぼるばかりなり。壁には蔦葛延ひかゝり、庭は葎に埋れて、秋ならねども野らなる宿なりけり。

 さてしも臥したる妻はいづち行きけん見えず。狐などのしわざにやと思へば、かく荒れ果てぬれど故住し家にたがはで、廣く造り作せし奧わたりより、端の方、稻倉まで好みたるまゝの形なり。呆自<あきれ>て足の踏所さへ失れたるやうなりしが、熟<つらつら>おもふに、妻は既に死りて、今は狐狸の住みかはりて、かく野らなる宿となりたれば、怪しき鬼の化してありし形を見せつるにてぞあるべき。若し又我を慕ふ魂のかへり來りてかたりぬるものか。思ひし事の露たがはざりしよと、更に涙さへ出でず。我が身ひとつは故の身にしてとあゆみ廻るに、むかし閨房にてありし所の簀子をはらひ、土を積みて塚とし、雨露をふせぐまうけもあり。夜の靈はこゝもとよりやと恐しくも且なつかし。水向の具物せし中に、木の端を刪りたるに、那須野紙のいたう古びて、文字もむら消して所々見定めがたき、正しく妻の筆の跡なり。法名といふものも年月もしるさで、三十一字に未期の心を哀れにも展べたり
   さりともと思ふ心にはかられて世にもけふまでいける命か

 こゝにはじめて妻の死したるを覺りて、大いに叫びて倒れ伏す。去とて何の年何の月日に終りしさへしらぬ淺ましさよ。人はしりもやせんと、涙をとゞめて立ち出れば、日高くさし昇りぬ。先づちかき家に行きて主を見るに、昔見し人にあらず。かへりて何國の人ぞと咎む。勝四郎礼まひていふ。此の隣なる家の主なりしが、過活のため京に七とせまでありて、昨の夜歸りまゐりしに、既に荒れ廢みて人も住ゐ侍らず。妻なるものも死しと見えて、塚の設も見えつるが、いつの年にともなきにまさりて悲しく侍り。しらせ給はゞ教へ玉へかし。

 主の男いふ。哀れにも聞え玉ふものかな。我こゝに住むもいまだ一とせばかりの事なれば、それよりはるかの昔に亡せ玉ふと見えて、住み玉ふ人のありつる世はしり侍らず。すべて此の里の舊き人は兵乱の初に逃げ失せて、今住居する人は大かた他より移り來たる人なり。只一人の翁の侍るが、所に舊しき人と見え玉ふ。時々あの家にゆきて、亡せ玉ふ人の菩提を吊はせ玉ふなり。此の翁こそ月日をもしらせ玉ふべしといふ。勝四郎いふ。さては其の翁の栖み玉ふ家は何方にて侍るや。主いふ。こゝより百歩ばかり濱の方に、麻おほく種ゑたる畑の主にて、其の所にちいさき庵して住せ玉ふなりと教ふ。勝四郎よろこびてかの家にゆきて見れば、七十可の翁の、腰は淺ましきまで屈まりたるが、庭竃の前に圓座敷きて茶を啜り居る。翁も勝四郎と見るより、吾主何とて遲く歸り玉ふといふを見れば、此の里に久しき漆間の翁といふ人なり。


(現代語訳)
窓の障子紙の破れから風が吹き入り夜中じゅう寒かったが、長旅の疲れでぐっすり寝た。夜が明ける頃、夢見心地ながらあまりに寒かったので、布団をかぶろうと手探りすれば、なにかがさらさらと音を立てているのに目が覚めた。顔にひやりとあたるものがあるので、雨が濡れているのかと見ると、屋根は風にまくられて、夜明けの月がしらじら残っているのが見える。家には扉があるようにも見えぬ。簀子の床が腐って、その合間から荻や薄が生い繁り、朝露がこぼれ出て、袖が濡れて滴り落ちるほどであった。壁には蔦や葛がおいかぶさり、庭は葎に埋もれて、秋ならねども秋の如く荒れ果てた宿であった。

ところで一緒に寝ていた妻はどこへ行ったか姿が見えない。狐などの仕業かと思えば、こうまで荒れ果ててはいても、もと住んでいた家に違いはなく、広く作ってある家の奥のあたりから端のほうの稲倉まで、自分の好みどおりに作ったままの形である。勝四郎は呆然として、足の踏み場もわからぬほどだったが、つらつら思うに、「妻はすでに死んで、今は狐や狸の住むところとなり、このように荒れ果ててしまったので、怪しい鬼が妻の姿に化けて現れたのだろう。あるいは自分を慕うあまりに妻の魂が戻ってきて一夜をともにしたのだろうか。やはり死んだと思っていたとおりだ」。こう思うと涙も出ないのだった。わが身ひとつが昔のままと思いながらあたりを歩き回ると、昔寝所にしていた部屋の床を取り払い、そこに土を盛って塚を築き、雨露を防ぐ設けがしてある。昨夜の魂はここから出たのかと思うと恐ろしくもありまた懐かしくもある。水向の備えをしてあるなかに、木の端を削った上に、たいそう古い那須野紙が貼ってあったが、そこに書かれている文字は消え消えになってわかりづらいものの、まさしく妻の筆跡である。法名も年月も記さず、末期の心を三十一文字であらわしていた。
  さりともと思ふ心にはかられて世にもけふまでいける命か

勝四郎はここではじめて妻が死んだことを覚り、大いに叫んで倒れ伏した。それにしても何年の何月何日に死んだことさえわからぬあさましさ、もしかして知っている人がいるかもと、涙をとどめて立ち出れば、日は高く上っていた。まず近くの家に行って主人に会ったが、昔の知り合いではない。かえってどこの国の者だと詰問された。勝四郎は丁寧に尋ねた。「私はこの隣の家に住んでいた者ですが、生活のために京に行ってそこで七年を過ごし、昨夜帰ってきたところ、すでに家は荒れ果てて誰も住んでおりません。妻も死んだと見えて、塚の設けもしてありますが、いつ死んだのかもわからず、悲しくてたまりません。もし知っておられたら教えてください」

相手の主人は答えて言った。「お気の毒ですな。私がここに住んでからまだ一年のことですが、それより前に亡くなったと見えて、そこに住んでおられた人のことは存じませぬ。この里のもとからの住人は兵乱の起った頃に逃げ失せて、今住んでいる人は大方他から移って来た人です。ただ老人が一人、古くから住んでいると思われます。時々あの家に行って、亡くなった人の菩提を弔っています。この老人なら詳しいことを知っているでしょう」。これを聞いて勝四郎は、「その老人の住んでいる家がどこにあるか、教えてください」と頼んだところ、主人は、「ここから百歩ばかり浜のほうに歩いたところに、麻を多く植えた畑がありますが、老人はその畑の主で、そこに小さな小屋を建てて住んでいます」と答えた。勝四郎が喜んでその家に行ってみると、七十ばかりの腰のあさましく曲がった老人が、庭の竈の前に座って茶をすすっていた。老人は勝四郎に気づくと、「おぬしはなぜこんなにも遅く帰ってきたのか」と言った。この老人はこの里に古くから住む浅間の翁という人だった。


(解説)
勝四郎が一夜の眠りから覚めると、一緒に寝ていたはずの妻の姿が見えない。家中を探し回ったところ、床下から妻のものと思える塚が現れ、その傍らには妻の辞世の歌を記した紙が添えられている。それを見た勝四郎は、妻がすでに死んだことと、昨夜の妻の姿は魂魄であったことを覚る。

そこで近隣の家を訪問して、妻の最後のことを尋ねると、この村にもとから住んでいた人はみな逃げ去ってしまい誰もいない、自分は外から来たものだが、自分が来たときにはそのような人はいなかった。付近にもとからここに住んでいる人がいるから、その人なら事情を知っているだろうと、ある老人のことを紹介してくれた。その老人は、この里に古くから住んでいる浅間の翁と言う人であった。老人を浅間の翁としたのは、題名にかけたのか。


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