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浅茅が宿(二):雨月物語


 年あらたまりぬれども猶をさまらず、あまさへ去年の秋、京家の下知として、美渡の國郡上の主、東の下野守常縁に御旗を給びて、下野の領所にくだり、氏族千葉の実胤とはかりて責むるにより、御所方も固く守りて拒ぎ戰ひけるほどに、いつ果つべきとも見えず。野伏等はこゝかしこに寨をかまへ、火を放ちて財を奪ふ。八州すべて安き所もなく、淺ましき世の費なりけり。

 勝四郎は雀部に從ひて京にゆき、絹ども殘りなく交易せしほどに、當時都は花美を好む節なれば、よき徳とりて東に歸る用意をなすに、今度上杉の兵鎌倉の御所を陥し、なほ御跡をしたふて責め討てば、古郷の邊りは干戈みちみちて、たく鹿の岐となりしよしをいひはやす。まのあたりなるさへ僞おほき世説なるを、ましてしら雲の八重に隔たりし國なれば、心も心ならず、八月のはじめ京をたち出て、岐曾の眞坂を日くらしに踰えけるに、落草ども道を塞へて、行李も殘りなく奪はれしがうへに、人のかたるを聞けば、是より東の方は所々に新関を居ゑて、放客の徃來をだに宥さゞるよし。さては消息をすべきたづきもなし。家も兵火にや亡びなん。妻も世に生きてあらじ。しからば古郷とても鬼のすむ所なりとて、こゝより又京に引かへすに、近江の國に入りて、にはかにこゝちあしく、熱き病を憂ふ。武佐といふ所に、兒玉嘉兵衞とて冨貴の人あり。是は雀部が妻の産所なりければ、苦にたのみけるに、此の人見捨ずしていたはりつも、醫をむかへて藥の事專なりし。やゝこゝち清しくなりぬれば、篤き恩をかたじけなうす。されど歩む事はまだはかばかしからねば、今年は思ひがけずもこゝに春を迎ふるに、いつのほどか此の里にも友をもとめて、揉めざるに直き志を賞ぜられて、兒玉をはじめ誰々も頼もしく交りけり。此の後は京に出て雀部をとふらひ、又は近江に歸りて兒玉に身を托せ、七とせがほどは夢のごとくに過しぬ。

 寛正二年、畿内河内の國に畠山が同根の爭ひ果さゞれば、京ぢかくも騷がしきに、春の頃より瘟疫さかんに行はれて、屍は衢に疊み、人の心も今や一劫の尽くるならんと、はかなきかぎりを悲しみける。勝四郎つらつら思ふに、かく落魄れてなす事もなき身の何をたのみとて遠き國に逗まり、由縁なき人の惠みをうけて、いつまで生くべき命なるぞ。古郷に捨てし人の消息をだにしらで、萱草おひぬる野方に長々しき年月を過しけるは、信なき己が心なりける物を。たとへ泉下の人となりて、ありつる世にはあらずとも、其のあとをももとめて塚をも築くべけれと、人々に志を告げて、五月雨のはれ間に手をわかちて、十日あまりを經て古郷に歸り着きぬ。


(現代語訳)
年が改まっても戦火はなお収まらず、そのうえ昨年の秋に、京都の将軍家からの下知があり、美濃の国郡上の領主東野下野守常縁に御旗が下され、常縁は一族の千葉実胤とともに公方を攻めたので、公方も固く守って戦ったために、戦火はいつ終わるとも見えない。野武士らがここかしこに砦をかまえ、村に火を放っては財を奪う。関八州すべて安全なところはなく、浅ましい限りの災厄であった。

勝四郎は雀部に従って京に行き、絹などを残らず売りさばいたが、当時都は華美を好んだ時節だったので、大いに儲けて東に帰る用意をしたところ、このたび上杉の兵が鎌倉公方を落とし、なおその後を追って攻めたてたので、故郷のあたりは干戈でみち、戦場となってしまったとの噂である。まのあたりのことさえ嘘の多い世間話であるから、まして遠く隔たった国のことは真偽がはっきりせず、気が気でなかった。八月の初めに京を出発し、木曽の眞坂を日暮れに越えたところが、山賊どもが道を塞ぎ、荷物を残らず奪われたうえに、人の噂では、これより先の東では所々関所を設けて、旅人の往来を認めないという。消息を確かめる手段もない。家も兵火に滅びたであろう。しからば故郷とて鬼の住処になったと思い、ここよりまた京に引き返したところ、近江の国に入って俄に心地悪しく、熱病にかかってしまった。武佐というところに児島嘉兵衞という富貴のものがいて、雀部の妻の実家であったので、そこにねんごろに言って頼ったところが、見捨てずに世話を焼き、医師を呼んで治療を施してくれた。しばらくして心地がよくなったので、厚く礼を言って辞去しようとしたが、まだまともに歩ける状態ではない。そこで今年は思いがけずもこの地で春を迎えた。いつのまにか友もでき、生来素直な気質が気に入られて、児玉はじめいろいろな人と親しく交際した。その後、京に出て雀部を訪ねたり、近江に帰って児玉に身を寄せたりするうち、七年程が夢の如くに過ぎた。

寛正二年、畿内河内の国に畠山の同士討ちがやまないので、京近くも騒がしくなったうえに、春の頃より疫病が流行って、屍が巷に積み重なり、人の心もすさみつくし、命運のはかなさを皆悲しんだのだった。勝四郎はつらつら思うに、「このように落ちぶれてなすこともない身を、何をたのんで遠い国にとどまり、ゆかりもない人の恵みをうけながら、いつまで生きるべき命か。故郷に置いてきた人の消息さえ知らず、萱草の生い茂る野辺に長い年月過ごしたのは、信義に欠けたわが心であった。たとえ泉下の人となって、もはやこの世にはあらずとも、その跡を求めて塚でも築くべきであろう」。そう思った勝四郎は人びとに志を語り、五月雨の晴れ間に別れを告げて、十日あまりを経て故郷に帰りついたのだった。


(解説)
この段は、勝四郎が京へ行ってから七年後に故郷へ戻ってくるまでの間のことを語る。この時期は、応仁の乱が始まる直前なので、京自体はまだ戦火が及んでいない。そこで勝四郎は、雀部のいる京と、勝四郎の親類がいる近江の間を行ったりきたりしながら、彼らの行為に甘えて居候のようなことをしている。

七年ぶりに故郷へ帰ろうと、一旦決意すると、勝四郎は脇目も振らず故郷の下総に戻ってくる。十日あまりを経てとあるが、この時代の京と関東を結ぶ道は、東海道と東山道であり、どちらをとっても二週間くらいはかかった。勝四郎の急いだ様子が伝わってくる。


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