日本語と日本文化


菊花の約(五):雨月物語


 明くる日、左門母を拝していふ。吾幼なきより身を翰墨に托するといへども、國に忠義の聞えなく、家に孝信をつくすことあたはず。徒に天地のあひだに生るゝのみ。兄長赤穴は一生を信義の爲に終る。小弟けふより出雲に下り、せめては骨を藏めて信を全うせん。公尊體を保ち給ふて、しばらくの暇を玉ふべし。老母云ふ。吾兒かしこに去るとも、はやく歸りて老が心を休めよ。永く逗まりてけふを舊しき日となすことなかれ。左門いふ。生は浮きたる泡のごとく、旦にゆふべに定めがたくとも、やがて歸りまいるべしとて、泪を振ふて家を出づ。佐用氏にゆきて老母の介抱を苦<ねんごろ>にあつらへ、出雲の國にまかる路に、飢ゑて食を思はず、寒きに衣をわすれて、まどろめば夢にも哭きあかしつゝ、十日を経て冨田の大城にいたりぬ。

 先づ赤穴丹沿が宅にいきて、姓名をもていひ入るに、丹治迎へ請じて、翼ある物の告ぐるにあらで、いかでしらせ玉ふべき謂<いはれ>なしと、しきりに問尋む。左門いふ。士たる者は富貴消息の事ともに論ずべからず。只信義をもて重しとす。伯氏宗右衞門一旦の約をおもんじ、むなしき魂の百里を來るに報ひすとて、日夜を遂うてこゝにくだりしなり。吾斈<まな>ぶ所について士に尋ねまいらすべき旨あり。ねがふは明らかに答へ給へかし。

 昔魏の公叔座病の牀にふしたるに、魏王みづからまうでゝ手をとりつも告ぐるは、若し諱むべからずのことあらば、誰をして社稷を守らしめんや。吾がために教を遺せとあるに、叔座いふ。商鞅年少しといへども奇才あり。王若し此の人を用ゐ給はずば、これを殺しても境を出すことなかれ。他の國にゆかしめば必も後の禍となるべしと、苦<ねんごろ>に教へて、又商鞅を私にまねき、吾汝をすゝむれども王許さゞる色あれば、用ゐずはかへりて汝を害し玉へと教ふ。是君を先にし。臣を後にするなり。汝速く他の國に去りて害を免るべしといへり。此の事士と宗右衞門に比へてはいかに。

 丹沿只頭を低<たれ>て言なし。左門座をすゝみて、伯氏宗右衞門塩冶が舊交を思ひて尼子に仕へざるは義士なり。士は旧主の塩冶を捨てて尼子に降りしは士たる義なし。伯氏は菊花の約を重んじ、命を捨て百里を來しは信ある極なり。士は今尼子に媚びて骨肉の人をくるしめ、此の横死をなさしむるは、友とする信なし。經久強てとゞめ玉ふとも、舊<ひさ>しき交はりを思はゞ、私に商鞅叔座が信をつくすべきに、只榮利にのみ走りて士家の風なきは、即尼子の家風なるべし。さるから兄長何故此國に足をとゞむべき。吾今信義を重んじて態々<わざわざ>こゝに來る。汝は又不義のために汚名をのこせとて、いひもをはらず拔打に斬ちつくれば、一刀にてそこに倒る。家眷ども立ち騒ぐ間にはやく逃れ出て跡なし。

 尼子經久此のよしを傳へ聞きて、兄弟信義の篤きをあはれみ、左門が跡をも強て遂<おは>せざるとなり。咨<あゝ>輕薄の人と交はりは結ぶべからずとなん。


(現代語訳)
あくる日、左門は母を拝して言った、「私は幼い頃より学問に専念してまいりましたが、国中に忠義で知られることなく、家に孝信を尽くすこともできませんでした。ただいたずらに生きてきただけです。兄上の赤穴は一生を信義に捧げて終わりました。私は今日から出雲にくだり、せめて兄上の骨を葬って信を全うしたいと思います。母上にはお体を大切にし、しばらくお暇をいただきたい」。それに対して老母は、「お前はあちらへいっても、早く帰ってきて私を安心させなさい。長く逗留して今日の別れを最後の別れとしないでおくれ」と言ったが、左門は、「生は浮いた泡のようなもので、朝夕に定めないものですが、すぐに帰ってまいりましょう」と言って、涙をふるって家を出た。佐用氏に赴いて老母の介抱を依頼し、出雲の国に逝く途上、飢えても食を思わず、寒さに衣を忘れて、まどろめば夢を見て泣き明かしつつ、十日を経て富田の大城についた。

まず赤穴丹沿のところに行って、姓名を名乗って案内を乞うに、丹沿は迎え入れて、「翼あるものが知らせたわけでもないのに、どうして宗右衛門の死を知っておられるのか、そのいわれはないはずだ」としきりに問いただした。そこで、左門は次のように答えた。「士たる者は、富貴や盛衰のことを問題にはしません。ただ信義を重んじるものです。赤穴の宗右衞門は一度結んだ約束を重んじ、死して霊魂となり百里を来ました。その信義に報いて、日夜を追ってここまでやってきたのです。わたしからあなたに士として尋ねたいことがあります。どうか明確に答えていただきたい。

「昔魏の公叔座が病に伏したときに、魏王が自ら見舞って叔座の手を握って言うには、おぬしにもしものことがあったら、誰に社稷をゆだねたらよいか。わしに教えを残してくれ。そう言われて叔座は答えた。商鞅は年少ではありますが才能があります。王がこれを採用されないならば、これを殺しても他国にいかせてはなりません。そうすればかならず後の災いとなるでしょう。このようにねんごろに言いながら、一方では商鞅をひそかにまねき、私はおぬしを王に推薦したが、王が乗り気でないので、もしおぬしを採用しないなら、おぬしを殺すようにと忠告した。これは君を先にし、臣を後にするという礼儀に従ったものだ。おぬしは早く他国に去って害を逃れるのがよい、と言った。このことをあなたと宗右衛門の関係に比べるとどうなりますか」

丹沿はただ頭を垂れて言葉もなかった。左門は進んで言った。「宗右衛門が塩冶との旧交を思って尼子に仕えなかったのは義士である。あなたが旧主の塩冶を捨てて尼子に降ったのは義士とはいえぬ。宗右衛門は菊花の約を重んじ、命を捨てて百里を来たのは信義の極みです。あなたは今尼子に媚びて骨肉の人を苦しめ、このような横死をさせた、友たるの信義がない。経久が強いて宗右衛門をとどめても、宗右衛門との旧交を思えば、ひそかに商鞅・叔座の信義を尽くすべきなのに、ただ営利に走った、あなたに士家の風がないのは尼子の家風なのだろう。それだから宗右衛門もこの国に止まろうとはしなかったのだ。私は信義を重んじてわざわざここまできた。汝は不義の汚名を残せ」と。そう言い終わらぬうちに、左門は刀を抜いて切りつけたので、丹沿は一刀でそこに倒れた。家臣たちが立ち騒ぐ合間に、左門は逃れ出て行方をくらましたのだった。

尼子経久はこの話を聞くと、兄弟の信義が厚いのに感心して、左門のあとを強いて追わせなかったということだ。ああ、軽薄の人と交わりは結ぶべきではない。


(解説)
最後の段では、左門が赤穴宗右衛門の無念をはらすさまが語られる。左門は宗右衛門の信義に感じるあまり、その亡骸を葬るとともに、従兄弟でありながら宗右衛門を見殺しにした赤穴丹沿を成敗する。たんに成敗するにとどまらず、人間にとって信義がいかに大切であり、それを破ることがいかに人間の道からはずれているか、について諄々と説教する。

そんなわけで、この物語には説教くさいところが目立つところもある。説教の中身は原作の内容をそのまま用いたものだが、秋成はそれを自分なりに納得できる話だと思っていたのだろう。




  
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