日本語と日本文化


貧福論(二):雨月物語


 恒の産なきは恒の心なし。百姓は勤めて穀<たなつもの>を出し、工匠等修めてこれを助け、商賈務めて此を通はし、おのれおのれが産を治め家を富まして、祖を祭り子孫を謀る外、人たるもの何をか爲ん。諺にもいへり。千金の子は市に死せず。富貴の人は王者とたのしみを同じうすとなん。まことに渕深ければ魚よくあそび、山長ければ獸よくそだつは天の隨なることわりなり。

 只貧しうしてたのしむてふことばありて、字を學び韻を採る人の惑ひをとる端となりて、弓矢とるますら雄も富貴は國の基なるをわすれ、あやしき計策をのみ調練<たならひ>て、ものをやぶり人を傷ひ、おのが徳をうしなひて子孫を絶つは、財を薄んじて名をおもしとする惑ひなり。顧ふに名とたからともとむるに心ふたつある事なし。文字てふものに繋がれて、金の徳を薄んじては、みづから清潔と唱へ、鋤を揮て棄たる人を賢しといふ。さる人はかしこくとも、さる事は賢からじ。金は七のたからの最なり。土にうもれては靈泉を湛へ、不淨を除き、妙なる音を藏せり。かく清よきものゝ、いかなれば愚昧貧酷の人にのみ集ふべきやうなし。今夜此の憤りを吐きて年來のこゝろやりをなし侍る事のうれしさよといふ。

 左内興じて席をすゝみ、さてしもかたらせ給ふに、富貴の道のたかき事、己がつねにおもふ所露たがはずぞ侍る。こゝに愚なる問事の侍るが、ねがふは詳にしめさせ給へ。今ことわらせ給ふは、專<もはら>金の徳を薄しめ、富貴の大業なる事をしらざるを罪とし給ふなるが、かの紙魚がいふ所もゆゑなきにあらず。今の世に富めるものは、十が八ツまではおほかた貧酷殘忍の人多し。おのれは俸祿に飽たりながら、兄弟一属をはじめ、祖より久しくつかふるものゝ貧しきをすくふ事をもせず、となりに栖みつる人のいきほひをうしなひ、他の援けさへなく世にくだりしものゝ田畑をも、價を賎くしてあながちに己がものとし、今おのれは村長とうやまはれても、むかしかりたる人のものをかへさず、禮ある人の席を讓れば。其の人を奴のごとく見おとし、たまたま舊き友の寒暑を訪らひ來れば、物からんためかと疑ひて、宿にあらぬよしを應へさせつる類あまた見來りぬ。

 又君に忠なるかぎりをつくし、父母に孝廉の聞えあり、貴きをたふとみ、賎しきを扶くる意ありながら、三冬のさむきにも一裘に起き臥し、三伏のあつきにも一葛を濯ぐいとまなく、年ゆたかなれども朝に暮に一椀の粥にはらをみたしめ、さる人はもとより朋友の訪らふ事もなく、かへりて兄弟一属にも通を塞れ、まじはりを絶たれて、其の怨をうつたふる方さへなく、汲々として一生を終るもあり。さらばその人は作業にうときゆゑかと見れば、夙に起おそくふして性力を凝らし、西にひがしに走りまどふありさまさらに閑なく、その人愚にもあらで才をもちうるに的るはまれなり。

 これらは顏子が一瓢の味はひをもしらず、かく果つるを佛家には前業をもて説きしめし、儒門には天命と教ふ。もし未來あるときは現世の陰徳善功も來世のたのみありとして、人しばらくこゝにいきどほりを休めん。されば富貴のみちは佛家にのみその理をつくして、儒門の教へは荒唐なりとやせん。靈も佛の教にこそ憑らせ給ふらめ。否ならば詳にのべさせ給へ。


(現代語訳)
「恒産なければ恒の心なし。百姓は穀物の生産にはげみ、工匠等はこれを助け、商人はこれを流通させる。各々自分の仕事にはげみ家を富まして、先祖をまつり子孫の繁栄をはかる、それ以外に人のなすべきことはない。諺にもいうとおり、千金を持ったものは野垂れ死にせず、富貴の人は王者と楽しみを同じくする。まことに、淵が深ければ魚がよく遊び、山が高ければ獣がよく育つのは、天のことわりというべきなのじゃ。

「ただ、貧しくても楽しむという言葉があって、字を学び詩を作るのが人の惑いのもととなり、弓矢をとるますらおも富貴が国のもとなることを忘れ、つまらぬ武略ばかりに精を出して、ものを破壊し人を傷つけ、己の徳を失い子孫を絶やすのは、財を軽んじて名を重んずるという惑いのためなのじゃ。思うに、名誉と財宝は心が二つなければあわせ求めることができぬわけではない。文字に拘るあまりに金の徳を軽んじ、自分を清潔ととなえ、鋤を捨てた人を賢人という、そういう人は、賢いとはいえても、やることは賢いとはいえぬ。金は七つの財宝のうちでも最たるものじゃ。土に埋もれても霊泉を湛え、不浄を除き、妙なる音を秘蔵す。こんな清らかなる物が、どうして愚昧貧酷の人にのみ集まるものじゃろうか。今夜、この憤りの気持を吐いて年来のこだわりを晴らすことができたことは、なんとうれしいことじゃ」

左内はその話に興じ膝を乗り出して言った。「いま語られたところは、富貴の道の尊いということで、拙者が日頃思っていることと異なりません。だがここに愚かな質問がある、どうぞ詳しく答えていただきたい。今のお話は、専ら金の徳を軽んじ富貴の大事さを知らぬは罪だということですが、学者の言い分にも一ありといえなくもない。今の世に富めるものは十の内八までが貧酷殘忍のものです。自分は十分な俸禄をとりながら、兄弟一族はじめ、昔から仕えている貧しい者を救うことをしない。隣人が落ち目になって、誰の助けもなく零落するとその田畑をやすく買い叩き、強引に自分のものにしてしまう。今は村長として敬われているものの、昔人から借りたものをまだ返さず。礼儀ある人が席を譲るとその人を奴のように見下し、たまたま旧友が寒暑の見舞に来ると、物を借りるためと疑い、居留守をつかう類を随分眼にしました。

「また、君に忠義を尽くし、父母に孝行し、尊きを尊び、卑しきを助ける心がけながら、冬の寒さにも布団一枚で起き伏し、夏の暑さにも着たきりの衣を洗うゆとりなく、豊作の年にも朝夕一膳の粥で満足する。このような人は朋友も訪ねて来ず、兄弟親族にも行き来を止められて交際を絶たれながら、それをうらんで訴えることもなく、汲々として一生を終える。その人は怠け者かと言えば、朝早く起き夜遅く寝て勢力を凝らし、東西に走りまどっても一向にゆとりがない。愚かでもないのに、才をめぐらしてもなかなか成功しない。

これらは、顔子の一瓢の味わいも知らずに終わるのです。これを仏教では前世の因縁で説明し、儒教では天命といいます。もし未来があれば、現世に善行を積めば来世に報われるとして、人々はしばらく憤りを収めるでしょう。されば富貴の道は、仏教のみが正しく、儒教は間違っているのでしょうか。あなたも仏教の教えをよりどころとされているようですが、そうでなければ、詳しくわけをお聞かせください」


(解説)
続いて金の精が金の功徳について諄々と語る。その見解を簡単にいえば、「千金を持ったものは野垂れ死にせず、富貴の人は王者と楽しみを同じくする」というもので、意外と単純なものである。

それに対して左内が、金についての否定的な俗論を持ち出して、果たして金というものは無条件にすばらしいと言えるのかと疑問を呈する。それに対して金の精は、金を軽んずるものは間違っているのじゃ、といってそのような俗論を退ける。金はいかなる場合においても、すばらしいものだ。金の精としては、それ以外に言いようもなかろう。




  
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