日本語と日本文化


貧福論(三):雨月物語


 翁いふ。君が問ひ玉ふは徃古より論じ尽さゞることわりなり。かの佛の御法を聞けば、富と貧しきは前生の脩否<よきあしき>によるとや。此はあらましなる教へぞかし。前生にありしときおのれをよく脩め、慈悲の心專らに、他人にもなさけふかく接はりし人の、その善報によりて、今此生に富貴の家にうまれきたり、おのがたからをたのみて他人にいきほひをふるひ、あらぬ狂言をいひのゝじり、あさましき夷こゝろをも見するは、前生の善心かくまでなりくだる事はいかなるむくひのなせるにや。佛菩薩は名聞利要を嫌み給ふとこそ聞つる物を、など貧福の事に係づらひ給ふべき。

 さるを富貴は前生のおこなひの善かりし所、貧賎は惡かりしむくひとのみ説きなすは、尼媽を蕩かすなま佛法ぞかし。貧福をいはず、ひたすら善を積まん人は、その身に來らずとも、子孫はかならず幸福を得べし。宗廟これを饗<うけ>て子孫これを保つとは、此ことわりの細妙なり。おのれ善をなして、おのれその報ひの來るを待つは直きゝろにもあらずかし。又惡業慳貧の人の富昌ゆるのみかは、壽<いのち>めでたくその終をよくするは、我に異なることわりあり。霎時<しばらく>聞せたまへ。

 我今假に化<かたち>をあらはして話るといへども、神にあらず佛にあらず、もと非情の物なれば人と異なる慮あり。いにしへに富める人は、天の時に合<かな>ひ、地の利をあきらめて、産を治めて富貴となる。これ天の隨<まにまに>なる計策なれば、たからのこゝにあつまるも天のまにまになることわりなり。又卑吝貪酷の人は、金銀を見ては父母のごとくしたしみ、食ふべきをも喫はず、穿べきをも着ず、得がたきいのちさへ惜<をし>とおもはで、起きておもひ臥してわすれねば、こゝにあつまる事まのあたりなることわりなり。我もと神にあらず佛にあらず。只これ非情なり。非情のものとして人の善惡を糺し、それにしたがふべきいはれなし。

 善を撫で惡を罪するは、天なり、神なり、佛なり。三ツのものは道なり。我がともがらのおよぶべきにあらず。只かれらがつかへ傳<かしづ>く事のうやうやしきにあつまるとしるべし。これ金に靈あれども人とこゝろの異なる所なり。また富みて善根を種うるにもゆゑなきに惠みほどこし、その人の不義をも察らめず借しあたへたらん人は、善根なりとも財はつひに散ずべし。これらは金の用を知りて、金の徳をしらず、かろくあつかふが故なり。

 又身のおこなひもよろしく、人にも志誠ありながら、世に窮められてくるしむ人は、天蒼氏の賜すくなくうまれ出たるなれば、精神を勞しても、いのちのうちにや富貴田貴を得る事なし。さればこそいにしへの賢き人は、もとめて益あればもとめ、益なくばもとめず、己がこのむまにまに世を山林にのがれて、しづかに一生を終る。心のうちいかばかり清しからんとはうらやみぬるぞ。

 かくいへど富貴のみちは術にして、巧なるものはよく湊め、不肖のものは瓦の解くるより易し。且我ともがらは、人の生産につきめぐりて、たのみとする主もさだまらず、こゝにあつまるかとすれば、その主のおこなひによりてたちまちにかしこに走る。水のひくき方にかたふくがごとし。夜に昼にゆきくと休むときなし。たゞ閑人の生産もなくてあらば、泰山もやがて喫ひつくすべし。江海もつひに飮みほすべし。いくたびもいふ。不徳の人のたからを積むは、これとあらそふことわり。君子は論ずる事なかれ。ときを得たらん人の儉約を守りついえを省きてよく務めんには、おのづから家富み人服すべし。我は佛家の前業もしらず、儒門の天命にも抱はらず、異なる境にあそぶなりといふ。


(現代語訳)
翁は言った。「おぬしが問われることは、昔から論じ尽きないことじゃ。仏の教えを聞くと、貧富は前世の行いの良し悪しによって決まると言うが、これは間違った教えなのじゃ。前世で己をよく修め、慈悲の心を専らにして、他人にも情け深くした人が、その果報によって、この世では富貴の家に生まれてきて、己の財宝をたのんで他人に威張りちらし、あらぬたわごとを言ったり、あさましいさまを見せるのは、どんな報いでそこまで堕落したのか。仏菩薩は名聞利要を嫌い給うというではないか。なんで貧富などにかかわるものか。

「なのに富貴は前世の行いがよかった報い、貧賤は悪かったことの報いと言うのは、女どもをたぶらかす仏法というべきじゃ。貧富を問わず、ひたすら善を積む人は、自分自身が豊かにならずとも、子孫が必ず幸福になる。『先祖を大事に敬えば子孫は繁栄する』というのは、もっともなことじゃ。己が善を積み、己がその報いの来るのを期待するのは間違った考え方じゃ。また、悪逆貪欲の人にも、富貴のみならず長生きする者がいるについては、わしには人と異なる意見がある。しばらく聞きなさい。

「わしはいまこうした姿で出てきて話しているが、神でもなければ仏でもない、もともと非情のものであるから人とは異なった考えがある。昔の世に富み栄えた人は、天の時にかない、地の利をわきまえて、金儲けにはげみ富貴となった。これは天の法則にかなったことゆえ、宝がここに集まるのも自然のことなのじゃ。また、けちな人は、金銀を見ると親のように親しみ、食うべきものも食わず、着るべきものも着ず、大事な命も惜しまず、寝ても起きても金銀のことを忘れないので、ここに金銀が集まってくるのは当たり前のことというべきなのじゃ。わしはもとより神でもなければ仏でもない、ただの非情のものじゃ。非情のものとして人の善悪をただしたり、それに従ういわれはないわけじゃ。

「善をよみし悪を罪するのは、天じゃ、神じゃ、仏じゃ。この三つは道じゃ。わしらのような者の及ぶところではない。わしらはただ、わしらを大事にしてくれるもののところに集まるだけじゃ。金にも霊があっても、おのずから人間とは違う霊なのじゃ。また、富んで善行するにも、ゆえなく恵み施し、相手の不義を顧みずに与えれば、善行といえども財はついにはなくなるものじゃ。これらは、金の効用を知って、金の徳を知らず、金を軽く扱うことの結果なのじゃ。

「また、身の行いも正しく、人にも誠実でありながら、貧窮して苦しむ人は、造化の神の恵みが少なく生まれついたのじゃから、いくら頑張っても、生きている間に富貴になることはできぬ。さればこそ昔の賢人は、求めて益あれば求め、益なければ求めず、気の赴くままに山林に逃れて一生を終わるのじゃ。そういう人は、心の中がどんなにさっぱりしているかと、羨ましい限りじゃ。

「とはいえ、富貴の道にもこつがあって、巧みなものはよく金を集めるが、下手なものは瓦が壊れるよりたやすく金を失う。わしらの仲間は、人のなりわいにつきあうばかりで、頼みとする主人も定まらぬ。ここに集まるかと思えば、そのものの行い次第ではたちまち去る。水が低いほうに流れるのと同じじゃ。夜昼往来して休む暇もない。ただ、怠け者が働かないならば、泰山もすぐに食い尽くされるじゃろう。何度もいうが、不徳の人が富貴になるのは、その人の徳・不徳とは関係のないことじゃ。だから君子はそれを論じるべきではない。時を得た人が倹約を守り費用を省くように努めれば、おもずから家も富んで人も服すもの。わしは、仏家のいう前世のことも知らず、儒教がいう天命にもかかわらず、それとは異なる境地に遊んでいるのじゃ」


(解説)
貧福の境遇の差を、仏教は前世の因縁で説明し、儒教は天命で片付けようとする。そういう見方が今の世の中では支配的だ。その結果、人の境遇というものは、人の努力とは無縁のところで定まるとのうがった見方が流通している。そう左内が指摘すると、金の精は、金というものは、それを大事にするところに集まり、粗末にするところから去るという、ごく単純な原理で動いているもので、仏教や儒教とは何の関係もないと主張する。金には金なりの独特の原理が働いているというわけである。

このあたりの金をめぐる考え方は、当時勃興しつつあった町人社会の倫理を反映したものだと指摘できよう。秋成も一町人として、そうした新しい町人倫理を共有していたと思われる。




  
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