日本語と日本文化


一寸法師:打出の小槌と鬼の宝物


一寸法師の物語は、お伽草紙においては住吉明神の縁起譚として語られている。主人公を背丈一寸の小人としているのは、スクナヒコナ以来の小さ子伝説が反映しているのであろう。

スクナヒコナははるか海の彼方から小さな舟に乗ってやってきた。一寸法師もやはり舟に乗って冒険の旅に出る。こんなところに両者の共通点を見ることもできる。

この物語はしかし、昔話を彩る鬼の話の一つの変形としてとらえたほうが面白い。鬼の話では、鬼の恐ろしさがクローズアップされ、したがって実質的には鬼が話の主人公になっているものが多い。一寸法師においては鬼は脇役に甘んじ、一寸法師の懲らしめをうけて、打出の小槌を置いたまま逃げ去っていく。

昔話に描かれた鬼の恐ろしさは、古代中世の日本人が生活の中で実感していた感情であったと思われる。だからその鬼を退治するというテーマは、鬼を恐れる感情の裏返しであったと思われる。時代が進み、鬼に対するかかわり方が微妙な変化を起こしていたのかもしれない。

鬼が宝物を残すというのは、原始的な鬼にはありえなかったであろうが、それがここでは話の大きな糸口になっている。鬼の宝物というテーマは桃太郎の場合にもあるし、おむすびころりんを始め鬼の浄土ものといわれる一連の話にも共通する。

一寸法師が語られた時代には、鬼はただに災厄をもたらす妖怪であるばかりではなく、時には人間に福をもたらすものとしてのイメージも持つようになっていた、そうも考えられるのである。

ここで「お伽草紙」の原典に当たってみよう。

「中頃の事なるに、津の國難波の里に、おうぢとうばと侍り。うば四十に及ぶまで、子のなきことを悲しみ、住吉に參り、なき子を祈り申すに、大明神あはれと思召して、四十一と申すに、たゞならずなりぬれば、おうぢ喜びかぎりなし。やがて十月と申すに、いつくしき男子をのこをまうけけり。さりながら生れおちてより後、せい一寸ありぬれば、やがて其の名を一寸ぼうしと名づけられたり。年月をふる程に、はや十二三になるまで育てぬれども、せいも人ならず。つくづくと思ひけるは、「たゞ者にてはあらざれ、只化物風情〕にてこそ候へ、われらいかなる罪の報いにて、斯樣の者をば住吉より賜はりたるぞや、淺ましさよ。」と、見るめも不便なり。夫婦思ひけるやうは、「あの一寸法師めをいづ方へもやらばやと思ひける。」と申せば、やがて一寸法師、此の由承り、親にもかやうに思はるゝも、くちをしき次第かな、いづ方へも行かばやとおもひ、刀なくてはいかゞと思ひ、針を一つうばに乞ひ給へば、取出したびにける。すなはち麥稈むぎわらにて柄鞘つかさやをこしらへ、都へ上らばやと思ひしが、自然舟なくてはいかゞあるべきとて、又うばに「御器ごきと箸とたべ。」と申しうけ、名殘をしくとむれども、たち出でにけり。住吉の浦より御器を舟としてうち乘りて、都へぞ上りける。
すみなれし難波の浦をたちいでて都へいそぐわが心かな」

神仏に祈念して子宝を授かるというのは、説経はじめ中世に流行した語り物の世界に共通するテーマである。ところが生まれてきた子は十二三になっても背丈一寸ばかりの小人であった。そこで夫婦は一寸法師を追い出してしまう。

物語の主人公が家を出て冒険の旅に出るのは、桃太郎を始め他の説話にも多く見られるが、親によって追い出されるというのは珍しい。これは一寸法師という主人公の特性が、話をそのように着色させたものと思われる。

家を出る際に、一寸法師が刀の変わりに針を、船の変わりにお椀を貰うのは、後に鬼が島に鬼退治にいくことの伏線となっている。

「かくて鳥羽の津にもつきしかば、そこもとに乘り捨てて都に上り、こゝやかしこと見る程に、四條五條の有樣、心も詞に及ばれず。さて三條の宰相殿と申す人の許に立寄りて、「物申さむ。」といひければ、宰相殿は聞召し、面白き聲と聞き、縁のはなへたち出でて御覽ずれども人もなし。一寸法師かくて人にも蹈み殺されんとて、ありつる足駄の下にて、「物申さむ。」と申せば、宰相殿、不思議のことかな、人は見えずして、おもしろき聲にてよばはる、出でて見ばやと思召し、そこなる足駄をはかむと召されければ、足駄の下より、「人な蹈ませ給ひそ。」と申す。不思議に思ひてみれば、いつきやうなるものにて有りけり。宰相殿御覽じて、げにも面白き者なりとて、御笑ひなされけり。」

三條の宰相殿と出会うこの場面は、一寸法師のイメージを際立たせる効果をもっている。一寸法師は宰相の下駄の下から「物申そう」と、雄々しい男子として振舞うのである。また船に乗ってやってきた一寸法師は、宰相にとっては異界からの客と映ったかもしれない。

「かくて年月をおくる程に、一寸法師十六になり、せいは元のまゝなり。さる程に宰相殿に十三にならせ給ふ姫君おはします。御かたちすぐれ候へば、一寸法師姫君を見たてまつりしより思ひとなり、いかにもして案をめぐらし、わが女房にせばやと思ひ、ある時みつもののうちまき取り茶袋に入れ、姫君のふしておはしけるに、謀事はかりごとをめぐらし、姫君の御口にぬり、さて茶袋ばかりもちて泣きゐたり。宰相殿御覽じて、御尋ねありければ、「姫君の、わらはが此の程とり集めておき候うちまきを、取らせ給ひ御參り候」と申せば、宰相殿大きに怒らせ給ひければ、案の如く姫君の御口につきてあり、まことに僞ならず、「かかる者を都におきて何かせむ、いかにも失ふべし。」とて、一寸法師に仰せつけらる。一寸法師申しけるは、「わらはが物を取らせ給ひて候程に、とにかくにもはからひ候へ。」とありけるとて、心のうちに嬉しく思ふ事かぎりなし。姫君はたゞ夢の心地して、呆れはててぞおはしける。一寸法師とく\/とすゝめ申せば、闇へ遠く行くふぜいにて、都を出でて足にまかせて歩み給ふ、御心のうちおしはかられてこそ候へ。」

十六になった一寸法師は、背丈は以前のまま小さいが、心持は一人前の男子になり、宰相の姫に懸想する。ここに恋愛物語を忍び込ませることで、物が立ちは重層的な効果を持つようにもなっている。しかして一寸法師は知略を用いて、姫と二人で旅へ出ることに成功する。

「あら痛はしや、一寸法師は姫君をさきに立ててぞ出でにけり。宰相殿はあはれ此の事をとゞめ給ひかしと思しけれども、繼母の事なれば、さしてとゞめ給はず、女房たちもつき添ひ給はず。姫君あさましき事に思しめして、かくていづかたへも行くべきならねど、難波の浦へ行かばやとて、鳥羽の津より舟にのり給ふ。折ふし風あらくして、きようがる島へぞつけにける。舟よりあがり見れば、人住むとも見えざりけり。かやうに風わろく吹きて、かの島へぞ吹きあげける。とやせむかくやせむと思ひ煩ひけれども、かひなく舟よりあがり、一寸法師はこゝかしこと見めぐれば、いづくともなく鬼二人來りて、一人は打出の小槌を持ち、今一人が申すやうは、「呑みてあの女房とり候はむ。」と申す。口より呑み候へば、目のうちより出でにけり。鬼申すやうは、「是こは曲者かな。」口をふさげば目より出づる。一寸法師は鬼に呑まれては、目よりいでて飛びありきければ、鬼もおぢをののきて、「是はたゞ者ならず、たゞ地獄に亂こそいできたれ、只逃げよ。」と言ふまゝに、打出の小槌、杖しもつ、何に至るまで打捨てて、極樂淨土のいぬゐの、いかにも暗き所へ、やう\/逃げにけり。さて一寸法師は是れを見て、まづ打出の小槌をらんばうし、「われ\/がせいを大きになれ。」とぞ、どうと打ち候へば、程なくせいおほきになり、さて此の程つかれにのぞみたる事なれば、まづ\/飯を打ちいだし、いかにもうまさうなる飯、いづくともなく出でにけり。不思議なる仕合せとなりにけり。其の後金銀こがねしろがねうちいだし、姫君ともに都へ上り、五條あたりに宿をとり、十日許りありけるが、此の事隱れなければ、内裏に聞召されて、急ぎ一寸法師をぞ召されけり。即ち參内つかまつり、大王御覽じて、「まことにいつくしきわらはにて侍る、いか樣さまこれは賤しからず。先祖を尋ね給ふ。おうぢは堀河の中納言と申す人の子なり、人の讒言により、流され人となりたまふ。田舍にてまうけし子なり、うばは伏見の少將と申す人の子なり、幼き時より父母に後れ給ひ、かやうに心もいやしからざれば、殿上へ召され、堀河の少將になし給ふこそめでたけれ。父母をも呼びまゐらせ、もてなしかしづき給ふ事、世の常にてはなかりけり。」

一寸法師は姫を伴って舟に乗り、とある島にたどり着く。桃太郎の場合には、始めから鬼が島へ向けて旅立つという設定になっているが、ここではたまたまたどり着いたということになっている。また姫が家を出るのは自発的にではなく、とくに継母の意向によって追い出されたのだと書かれているが、これは継子いじめのテーマが持ち込まれたのであろう。

そこへ二人の鬼が出てくる。一人は打出の小槌を持ち、もう一人は一寸法師を食って姫を取ろうという。鬼が一寸法師を飲み込むと、一寸法師は鬼の目から飛び出てきて、鬼を恐れさせる。バージョンによっては、異の中に入った一寸法師が針で鬼の胃の壁を突き刺すなどというものもある。

魔物の体内に飲み込まれた英雄が、その腹を突き破って魔物を殺すという話は、世界中に分布している。お伽草紙ではそうしたイメージには描かれていないが、鬼が一口で人を飲み込むというのは、日本の鬼の説話に共通したイメージなのである。

「さる程に少將殿中納言になり給ふ。心かたちは初めよりよろづ人にすぐれ給へば、御一門のおぼえいみじく思しける。宰相殿きこしめし喜び給ひける。その後若君三人いできけり。めでたく榮え給ひけり。住吉の御誓ひに末繁昌に榮えたまふ。よのめでたきためし、これに過ぎたる事はあらじとぞ申し侍りける。」

物語の最後は、打出の小槌の威力で大きくなった一寸法師がめでたく出世し、姫とも結ばれて子どもにも恵まれ、住吉明神に感謝するところで終っている。縁起譚としても、鬼の話としても、また小人の出世物語としても、なかなか結構にとんだ話といえよう。


    


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