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瘤取り爺さん鬼と 山伏と延年の舞:宇治拾 遺物語


瘤取り爺さんの話は日本の昔話の中でももっともよく語られたものである。顔に大きな瘤のある爺さんが山の中で一夜を明かすと鬼の集団が現れて宴会の踊りを始める、爺さんがつられて一緒に踊ると、鬼はいたく感心し、また来るようにといって、質物に爺さんの瘤をとった。この話を聞いた隣の爺さんは、自分も瘤を取ってもらおうと思い鬼のところに出かけるが、うまく踊ることができずに鬼をがっかりさせる、そのうえもう来ないでもいいといわれて、質物の瘤までつけられてしまうという話である。

この話のモチーフは色々に解釈することができる。瘤取り爺さんが主人公なので、爺さんの瘤の由来や隣の爺さんの欲に焦点を当てることもできようが、この話には大勢の鬼たちが出てきて、踊りや宴を繰り広げるので、むしろ鬼の話の一類型としてとらえたほうが面白い。

この話の原型は宇治拾遺物語に出ており、古い形を伝えている。そこでは鬼の親分のほかに多くの鬼が登場して、その姿や振舞などについて詳しく書かれている。それを読むと、昔の日本人が鬼についてどんなイメージを持っていたか、おぼろげながらわかるのである。

そこでまず、宇治拾遺物語の原典に当たってみよう。

(宇治拾遺物語:鬼にこぶとらるゝ事) 「これもいまはむかし。 右のかほに大なるこぶあるおきなありけり。 大よそ山へ行ぬ。 雨風はしたなくて帰にをよばで。 山の中に心にもあらずとまりぬ。 又木こりもなかりけり。 おそろしさすべきかたなし。木のうつぼの有けるにはひ入て。 目もあはずかがまりてゐたるほどに。 はるかより人の声おほくしてとゞめきくるをとす。」

爺さんは山の中で雨風にあって家に帰れなくなり、木のうろに入って一夜を明かそうとする。するとそこに鬼たちが現れる。それは古来山にひそむ妖怪であると思念されていたものである。その妖怪たちのさまを、物語は続けて語る。

「いかにも山の中にたゞひとりゐたるに人のけはひのしければ。 すこしいき出る心ちしてみいだしければ。 大かたやう\/さま\"/なる物どもあかき色には青き物をき。 くろき色にはあかきものをき。 たたうさきにかき。 大かた目一あるものあり。 口なき物など大かたいかにもいふべきにあらぬ物ども百人ばかりひしめきあつまりて。 火をてんのめのごとくにともして。 我ゐたるうつぼ木のまへにゐまはりぬ。 大かたいとゞ物おぼえず。 むねとあるとみゆる鬼よこ座にゐたり。 うらうへに二ならびに居なみたる鬼かずをしらず。 そのすがたおの\/いひつくしがたし。 酒まいらせあそぶありさま。 この世の人のする定なり。」

妖怪には赤鬼や黒鬼がいる。また一つ目小僧を思わせるものや、口のないのっぺらぼうのようなものもいる。百鬼夜行のイメージである。百人ばかりいる妖怪の中に「むねとある」つまり親分格の鬼がいて、「横座」すなわち主人用の席に収まっている。その前に子分の妖怪たちは二列に並んでかしこまり、恐らく杯を回し飲みながら宴会を始めるのである。

「たびたびかはらけはじまりて。 むねとの鬼ことの外にゑひたるさまなり。 すゑよりわかき鬼一人立て。 折敷をかざしてなにといふにかくどきぐせざることをいひて。 よこ座の鬼のまへにねりいでゝくどくめり。 横座の鬼盃を左の手にもちてゑみこだれたるさま。 たゞこの世の人のごとし。 舞て入ぬ。 次第に下よりまふ。 あしくよくまふもあり。 あさましとみるほどに。 このよこ座にゐたる鬼のいふやう。 こよひの御あそびこそいつにもすぐれたれ。 たゞしさもめづらしからん。 かなでをみばやなどいふに。 この翁ものゝつきたりけるにや。 また神仏の思はせ給けるにや。 あはれはしりいでゝまはゞやとおもふを。 一どはおもひかへしつ。 それになにとなく鬼どもがうちあげたる拍子のよげにきこえければ。 さもあれたゞはしりいでゝまひてん。 死なばさてありなんと思とりて。 木のうつぼよりゑぼしははなにたれかけたる翁の。 こしによきといふ木きるものさして。 よこ座の鬼のゐたるまへにおどり出たり。」

若い鬼が折敷を捧げて前に出て、親分に捧げた後、舞を舞う。続いてほかの鬼どもも下のほうから順次舞をする。そのうち親分が「かなで」を見たいと言い出す。「かなで」とは演奏のことであろう。

様子を見ていた爺さんはすっかり浮かれてしまい、恐ろしさを忘れて木のうろから飛び出すと踊りを始める。

「この鬼どもをどりあがりて。 こはなにぞとさはぎあへり。 おきなのびあがりかゞまりてまふべきかぎり。 すぢりもぢりゑいごゑをいだして一庭をはしりまはりまふ。 よこ座の鬼よりはじめてあつまりゐたる鬼どもあざみ興ず。 よこ座の鬼のいはく。 おほくのとしごろこのあそびをしつれども。 いまだかゝるものにこそあはざりつれ。 いまよりこのおきなかやうの御あそびにかならずまいれといふ。 おきな申やう。 「さたにをよび候はずまいり候べし。 このたびにはかにておさめの手もわすれ候にたり。 かやうに御らむにかなひ候はゞ。 しづかにつかうまつり候はんといふ。 よこ座の鬼。 いみじう申たりかならずまいるべきなりといふ。 奥の座の三番にゐたる鬼。 この翁はかくは申候へども。 まいらぬことも候はんずらん。 おぼしゝしちをやとらるべく候らんといふ。 よこ座の鬼しかるべし\"/といひて。 なにをかとるべきとおの\/いひさたするに。 よこ座の鬼のいふやう。 かのおきながつらにあるこぶをやとるべき。 こぶはふくのものなればそれをやおしみおもふらんといふに。 おきながいふやう。 たゞ目はなをばめすともこのこぶはゆるし給候はん。 とし比もちて候ものを。 ゆへなくめされすぢなきことに候なんといへば。 よこ座の鬼。 かうおしみ申物なり。 たゞそれを取べしといへば。 鬼よりてさはとるぞとて。 ねぢてひくに大かたいたきことなし。 さてかならずこのたびの御あそびにまいるべしとて。 暁に鳥などもなきぬれば鬼どもかへりぬ。」

こうして踊りに感心した鬼は、爺さんに再び来るように伝える。その際に、約束を守らせるための質物として、爺さんの瘤をとるのである。

物語はこの後の後半の部では、隣の爺さん方の教訓譚に移る。

おきなかほをさぐるに年来ありしこぶあとかたなくかひのごひたるやうにつや\/なかりければ。 木こらんこともわすれていゑにかへりぬ。 妻のうばこはいかなりつることぞとゝへば。 しか\"/とかたる。 あさましき事かなといふ。 となりにあるおきな左のかほに大なるこぶありけるが。 このおきなこぶのうせたるをみて。 こはいかにしてこぶはうせ給たるぞ。 いづこなる医師のとり申たるぞ。 我につたへ給へ。 このこぶとらんといひければ。 これはくすしのとりたるにもあらず。 しか\"/の事ありて鬼のとりたるなりといひければ。 我その定にしてとらんとてことの次第をこまかにとひければをしへつ。 このおきないふまゝにしてその木のうつぼに入てまちければ。 まことにきくやうにして鬼どもいできたり。 ゐまはりて酒のみあそびて。 いづらおきなはまいりたるかといひければ。 このおきなおそろしと思ひながらゆるぎ出たれば。 鬼どもこゝにおきなまいりて候と申せば。 よこ座の鬼こちまいれとくまへといへば。 さきのおきなよりは天骨もなくおろ\"/かなでたりければ。 よこ座の鬼このたびはわろく舞たり。 かへす\"/わろし。 そのとりたりししちのこぶ返したべといひければ。 すゑつかたより鬼いできて。 しちのこぶかへしたぶぞとて。 いまかた\"/のかほになげつけたりければ。 うらうへにこぶつきたるおきなにこそなりたりけれ。 ものうらやみはせまじきことなりとか。

隣の爺さん型の話は花咲か爺さんの「ここほれわんわん」をはじめひろく分布しており、古来一種の教訓話として流通していたものを、この話にも取り入れたのであろう。だがこの話の眼目は上に述べたように、やはり鬼のほうにあると思える。

この話に描かれた鬼の宴会について、宗教民俗学者の五来重は山伏の延年の舞を描写しているのではないかと推測している。山伏は山の神の従者を自認しているが、修験者として山中を飛び回るその姿から、民衆の目には山の神の化身とも映ってもいた。そこから天狗や鬼が山伏の姿にオーバーラップされるに至ったのだというのである。

延年の舞というのは、山伏たちが正月の修正会、三月の法華会、六月の蓮華会などの行事において、酒盛りをして宴会をし、舞を踊るというものである。古代末期から中世にかけて、延年の舞は寺院の中で催されることが多かった。それは山伏が寺院に従属するようになったことの現れであって、もともとは山伏の間に伝わった伝統的な行事であったらしい。

この舞の中で、山伏たちは鬼や天狗の面をつけて舞ったらしい。また舞の途中で、見物人の即興的な参加を許すこともあったらしい。

瘤とり爺さんに描かれている鬼の宴会は、この山伏たちの延年の踊りが昔話として伝えられたのではないか、そのように五来重は推測している。



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