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鬼の話:昔話に見る日本の鬼



鬼と聞いて現代人が思い浮かべるのは、まず節分の鬼であろう。二本の角を生やし、髪は赤茶けた巻き毛で、口には牙が生え、トラの皮の褌を締めている。これが春の訪れとともにやってきて、人間たちに悪さをするというので、人びとは「鬼は外」と叫びながら、厄除けの豆を投げつけて鬼を退散させ、自分たちの無事を祈るのである。

秋田のなまはげは節分ではなく、大晦日の夜に現れるが、やはり上に述べたような鬼の特徴を有している。ただし褌を締める変わりに蓑をかぶっているが。

このように、鬼は現代人にとっては、年中行事の一齣で出会うメルヘンチックな産物に過ぎなくなってしまったが、かつての我々の祖先たちにとっては、日常生活の中で大きな意味合いを持ったものであった。

日本人は古来、朝廷が編集した書かれた神話としての記紀のほかに、地方ごとに独自の口誦伝承を伝えてきた。それらは「昔話」あるいは「昔語り」として、世代から世代へと語り継がれ、その一部は「日本霊異記」や「宇治拾遺物語」を始めとした説話集に収録された。

こうした昔話を読むと、鬼をテーマにした「鬼むかし」とよばれるジャンルのものがもっとも多いことに気づかされる。昔話は、記紀とは別の次元で日本人の神話的なイメージを凝縮しているものと思われるので、そこに鬼が頻繁にでてくるというのは、日本人と鬼とが古来深い因縁で結びついていることを感じさせるのである。

そもそもその鬼というものが、日本人にとって何をさしていたかについては、柳田国男や折口信夫らの研究を通じて、死者の霊魂、それも祖霊を意味していたとする見解が有力になっている。

日本人の霊魂観については、筆者は別のところで論を展開したことがある。その論旨を改めていうと、人間の霊魂というものは、人が死んでも滅びることはなく、死者の遺骸の周りを漂いつつ、しばらくは死者に縁あるものの近くにある。そして機会があればほかの生き物に生き移って、違う形で甦ることもあれば、場合によっては、生前の怨念がたたって生者に災厄をもたらすこともある。鬼は、死者の霊魂のうちで、この祟りをもたらす荒ぶる霊魂を形象化したものだといえるのである。

古代の日本人は「おに」という言葉に、「鬼」という漢字を当てたが、漢語の「鬼」はそもそも「霊魂」を意味する言葉である。「おに」は漢語の「穏―おん」が転化したとする俗説があるが、それは順序が逆な説といえる。もともと日本の「おに」が意味の近接性から漢語の「鬼」と表記されたのであって、漢語の音が日本語の「おに」という言葉に転化したのではない。

古来日本人の文化的伝統において、祖霊との関わりほど重要なものはなかった。日本人が一年の節々に催すさまざまな行事には、この祖霊が決定的な役割を果たしている。上述した節分の行事やなまはげ、また各地の伝統的な祭事は殆どが、この祖霊を迎える行事に端を発している。神道などはこの祖霊とのかかわりを体系化したものともいえるのである。

祖霊の中でも、日本人をもっとも悩ましたのは、荒ぶる魂であった。この荒ぶる魂が、日本人の生業たる農耕に災いをもたらすとき、それは疫病神となった。日本人は世界の中に農耕民族として登場して以来、この疫病神に悩まされ続けてきたのであり、疫病神の怒りを静めるために、さまざまな努力を重ねてきた。京都の祇園祭をはじめ、今日でも日本各地に残っている伝統行事の多くは、その起源を厄払いにもっている。

こうした荒ぶる死霊、あるいは疫病神としての鬼については、日本書紀にも言及がある。斉明天皇七年の条に、天皇の葬儀にあたって、蘇我入鹿の霊が出てくる。

  朝倉山の上において、鬼ありて、大いなる笠を着て、喪の儀を臨み観る

入鹿は斉明天皇が重詐する以前の皇極天皇であった時に、大化の改新に際して殺されたために、しばしば天皇に祟りをした。また、少し下った時代の菅原道真は、死後怨霊となって都に出没し、自分を陥れた者たちに祟りをもたらし続けた。

こうした死者の荒ぶる霊が、鬼という形をとって、人々の畏怖の対象となっていったのである。

この荒ぶる霊が今日のような鬼の形をとるに至るのには、仏教の影響が働いているものと思われる。その詳細については、今後の論及の中で明らかにしていきたい。

(参考)五来重「鬼むかし」



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