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御裳濯川歌合:西行を読む


最晩年の西行は、二つの自歌合集を作った。「御裳濯川歌合」と「宮河歌合」である。「御裳濯川歌合」は、文治三年(1187)に藤原俊成の加判を得て完成した。「宮河歌合」はそれより二年後の文治五年に藤原定家の加判を得て完成した。どちらも同じ頃に加判を依頼したらしいが、俊成はすぐさま返してくれたのに対して、定家のほうはなにかの事情で手間取ったらしい。文治五年といえば、西行の死の前年だが、西行は定家の加判を大いに喜んだと伝えられている。

歌合というのは、宮中の遊びのひとつで、人々が左右に分かれて歌の優劣を競い合うと言うものだ。多くの場合、題が出されて、それを詠んだものについて、判者が優劣を判定するというものだった。西行は本格的な歌合には加わったことがないようだが、その形式を借りて自分の歌集を作った。つまり、自分の歌を左右二組にわけ、それぞれについての優劣を第三者に判定してもらうという形をとった。その判者には、当代一流の歌人たる俊成とその子定家にあたって貰ったわけである。

西行はなぜ、この形式をわざわざ採用したのか。一つには、宮廷における和歌の伝統としての歌合せを採用することで、自分の歌を日本の和歌の伝統に確固として位置づけしたいと思ったこと、もう一つには、俊成、定家という当代一流の歌人に、自分の歌を評価・判定してもらうこと、そのためには自歌合という形式が都合がよいと思ったこと、この二つの事情が考えられよう。いずれにしても西行は、この二つの自歌合を、自分のそれまでの業績を集大成したものと考えていたに違いない。「山家集」が、歌業を網羅した全集のようなものであったとすれば、自歌合は自分なりに得心した歌のアンソロジーといったものだったのではないか。

「御裳濯川歌合」の体裁は、左右一対ずつ三十六対、計七十二首の歌を配し、それぞれの対ごとに優劣を乞うというものである。これに対して判者の俊成が、優劣の判定と、その理由を述べるという形をとっている。最後に全体の総評として俊成が歌を読み、それに西行が返すことで締めくくるのである。なお、西行は左右の歌の作者として、山家客人、野径亭主という架空の人物を擬制し、歌合としての体裁をとりつくっている。最初の対(一番)には神路山、最後の対(三十六番)には御裳濯川を歌った歌が配されているが、これはこの自歌合が伊勢神宮に奉納されることを前提にしているからである。

最初の対への判定の注として、俊成は全体の序文というべきものを書いている。型通りの和歌の歴史を述べ、その中での歌合せの意義について触れたあと、自分と西行との長い付き合いと、自歌合の判定を依頼されたことについて、俊成は次のように書く。「今、上人円位、壮年の昔よりたがひにおのれを知れるによりて、二世の契りを結び終にき。各老に臨みて後の離居は山河を隔てといへども、昔の芳契は旦暮に忘るることなし。その上に、これは余の歌合の儀にあらざるよし、しひて示さるる趣伝へ承るによりて、例の物覚えぬひが事どもを記し申すべきなり」。俊成は、西行との昔からのよしみにちなみ、また西行の強い意欲に煽られてこの歌合の判者を引き受けたといった趣が伝わってくる。

俊成は又、次のようにも書いている。「かかる藻屑の乱れたる言の葉ながら、かけまくもかしこき神風のつてに、御裳濯川の汀、玉串の葉の陰にも散り侍らば、大内人の中にもおのづから露のあはれを懸けられ侍らむや」。これは、この歌合が伊勢神宮に奉納されることを意識した言葉であろう。

そこで、俊成の西行の歌への判定であるが、これには俊成らしさが伺われる。たとえば第七番への判定
    左持
  願はくは花のもとにて春死なむその二月の望月のころ
    右
  来む世には心のうちにあらはさむ飽かでやみぬる月の光を
    左の、花の下にてといひ、右の、来む世にはといへる心、ともに
    深きにとりて、右はうちまかせてよろしき歌体成。左は、願はく
    はと置き、春死なむといへる、うるはしき姿にはあらず、其体に
    とりて上下相叶ひていみじく聞ゆる也。さりとて、深く道に入ら
    ざらむ輩は、かくよまむとせば叶はざる事ありぬべし。これは至
    れる時の事也。姿は相似ざるといへども、准へて持とす。
「願はくは」の歌は西行の絶唱というべき歌で、その素晴らしさは今でも定評がある。ところが俊成のこの歌への見方は、かなり屈折している。「願はくは」と「春死なむ」の組み合わせがうるわしくないといった上で、だがやはりいいところもある、こういう歌は初心者が歌うと破綻するものだが、西行のような人が詠むと格好がついてしまう。そういって、これといった難点のない右の歌と引き分けだと判定するのである。

また、十八番については、次のとおりである。 
    左勝
  大方の露には何のなるならん袂に置くは涙なりけり
    右
  心なき身にも哀は知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮
    鴫立つ沢といへる、心幽玄に、姿及びがたし。但、左歌、露には
    何のといへる、詞浅きに似て、心ことに深し。勝つべし。
「鴫立つ沢」の歌は「三夕の歌」の一つとして非常に名高く、西行の傑作の一つといってよい。その歌が、これはいかにも平凡に聞こえる「露には何の」よりも劣っていると見るのは、かなり面白い見方だ。「鴫立つ沢」も幽玄でいい歌だが、「露には何の」は、詞が浅いようで心の深さを感じさせる、というのであるが、その辺は、西行と俊成との美意識の微妙な違いが反映されているのだろうと思われる。


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