日本語と日本文化


陸奥への旅(一)清見潟:西行を読む


西行は、生涯に二度陸奥への大きな旅をしているが、最初の旅は、天養元年(1144)数え年二十七の年のことだった。その二年前には、待賢門院の落飾を記念して法華経の書写を有力者に勧めて歩いたことが藤原頼長の日記に見える。それにひと区切りついたことで、修行を更に深める為に、陸奥への大旅行を試みたというふうに映るが、この旅にはもう一つの動機が隠されていたようである。それは能院法師の跡をたどるというものだった。旅の僧として知られる能院法師は、陸奥に大きな旅をして、各地の風景に接しては歌を読んだ。その境地を自分もまた味わって見たい、そうした動機が働いて、陸奥への旅を決意したことは十分にありうる。

西行の行程は、山家集などに載せられている歌枕を詠んだ歌からおおよそを推測することができる。都を夏の終わりの頃に出て、東海道を下り、白河の関を越えて奥州に入り、信夫、武隈、松島を経て平泉に至り、更に出羽の象潟や津軽半島の外ヶ浜まで脚を伸ばしている。

「西行物語」は、西行のこの旅を、歌枕を紹介しながら案内している。その歌枕は、能院法師の旅をも思い出させるものである。それに先立って「西行物語」は、天竜川の渡し舟の一件を紹介している。天竜川で武士の乗った渡し舟に西行と同行の僧が乗ろうとしたところ、船が沈んでしまうから降りろ降りろと武士に言われた。これはよくあることだろうと西行が知らぬふりをしていると、武士が西行の頭を鞭で打ったので、西行は少しも恨む景色を見せず、手を合わせて船から下りた。その時に同行の僧が西行に批判めいたことを言うと、西行は次のように言ってその僧をたしなめたという。

「都を出でしとき、道の間にていかにも心苦しき事あるべしといひしは、これぞかし。たとひ足手を切られ、命を失ふとも、それ全く恨みにあらず。もしいにしへの心をも持つべくは、髪を剃り衣を染めでこそあらめ。仏の御心は、みな慈悲を先として、われらがごとくの造悪不善の者を救ひ給ふ。されば仇を以て仇を報ずれば、その恨みやまず」

この言葉には、もと武士としての西行の猛々しい心の残影と、出家の身として仏に仕えようという意思との葛藤が見られる。ともあれこの逸話は、十三世紀の末に成立した「十六夜日記」にも言及があるから、西行の伝記として広く普及していたものと思われる。

「西行物語」が最初に紹介する歌枕は、有名な小夜の中山だが、この歌は趣旨からして西行晩年のものであり、二度目の奥州旅行のときの作品と考えられる。西行物語は、西行の奥州旅行を一度のこととして、かなりごちゃまぜにしているところがある。

大井川を過ぎる頃には、「初秋風も身にしみて、いつしか野辺の景色もあはれに、虫の声々おとずれ、誰が言伝てを待つとしもなき越路の雁もおとずれ、心細くおぼえ」られるようになった。その折の歌として「西行物語」は次の三首を挙げている。
  秋立つと人は告げねど知られけり深山のすその風のけしきに(山255)
  おぼつかな秋はいかなる故のあればすずろに物の悲しかるらむ(山290)
  白雲を翼にかけて飛ぶ雁の門田の面の友慕ふなり(山422)

一首目は、「山居初秋」という詞書があるとおり、実際には陸奥の旅とは関係がない。二首目は「秋歌中」という詞書がついており、これも陸奥とは関係がないようだ。三首目も関係があるという裏づけはない。どうも「西行物語」は、西行の歌から適当に選んで、それらをこの文脈の中で使っているフシが伺える。

ついで、業平が蔦楓に道を迷ったという宇津の山辺を過ぎ、清見潟に至った。清見潟は、駿河の国興津の海岸にあり、古来歌枕として有名だった。ここで「西行物語」は、次の歌を紹介する。
  清見潟沖の岩越す白波に光をかはす秋の夜の月(山324)
この歌は、崇徳院の次の歌を下敷きにしたものである。
  玉寄する浦わの風に空晴れて光をかはす秋の夜の月
西行と崇徳院とは、強いつながりで結ばれていたが、それは歌の上でも、このような形であらわれているわけである。



  
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