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月:西行を読む


日本の詩歌の歴史において月が秋と深く結びつくのは平安時代後半以降のことだ。中国での観月の風習、これは旧暦八月の十五日に行われたが、その風習が平安時代の半ばに入ってきたことが、秋と月を結びつけるきっかけになった。日本人は九月の十三夜にも観月をするようになったので、月と秋の結びつきがいよいよ強まったわけである。

こんなわけで万葉集には、月を歌った歌は沢山あるけれど、季節との結びつきを感じさせるものはない。月夜の明るさとか、三日月のほのかな光とか、月そのものがテーマになった歌が多い。古今集でもその傾向はかわらず、月と秋との結びつきを感じさる歌、たとえば
  木の間よりもりくる月の影みれば心づくしの秋はきにけり(古184)
この歌なども、月と秋との結びつきを感じさせるが、それは観月の風習とはまだ結びついておらず、月のかもし出す冷え冷えとした印象が秋の寂しさを思い出させると歌うにとどまっている。

西行の時代になると、月は秋の風物という考えが定着したようで、山家集の秋の部には数多くの月の歌が収められている。というか、秋の部の半分以上は月の歌であり、秋といえば月という連想が強固に成り立っていたことを思わせるものになっている。

八月十五夜と題した一連の歌からまずひとつ、
  数へねど今宵の月のけしきにて秋の半ばを空に知るかな(山330)
暦の日を数えたわけではないが、月が満月になっているのを見て、今宵が八月の十五夜だということを知ったと歌ったもの。秋風が吹いてきたことで秋の訪れを知ったというのと同じ趣旨の歌である。この時代の人は暦を数えながら十五夜の月を楽しんだはずだが、西行は僧形としてそんなふうには浮かれていられない。ただ月の様子を見て、今宵が十五夜であることを知り、自分が月を通じて世の中とつながっていることを確認するわけであろう。

月は西行の時代には、太陽と並んで時間の進行を感じさせるものだった。太陽が年月の流れを感じさせるとしたら、月は日々の変化を感じさせた。だが月もまた年月の長い流れを感じさせることがある。そんな感じを歌ったものとして、
  うちつけにまた来ん秋の今宵まで月ゆゑ惜しくなる命哉(山333)
八月十五日は毎年やってくる。今年の八月十五夜、つまり今宵の月があまりに澄んでいたので、それが忘れられず来年も見たいと思う。それをかなえるためにも、自分の命が生きながらえることを祈る、と歌ったもので、月に時間の流れとそれにともなう命の流れを重ね合わせた歌だ。

同じような気持を歌った歌がほかにもいくつかある。たとえば、
  月を見て心うかれしいにしへの秋にもさらにめぐり逢ひぬる(山349)
  何事も変りのみゆく世の中におなじ影にて澄める月哉(山350)
一首目は、昔は月をみてうかれていたが、いまでは違う気持で月を見る、と言う具合に、年月の経過に伴う心境の変化を月に寄せて歌ったものだ。二首目は、世の中がどんどん変っていく一方で、月は毎年かわらず影を投げてくれると歌う。どちらも年月や世情の変化を月影の不変性と対照させたものだ。

西行は僧として月をどう捉えていたのだろうか、それを思わせる歌もいくつかある、まず
  ながむればいやな心の苦しきにいたくな澄みそ秋の夜の月(山367)
月を眺めると心がいたくなるから、あまり明るくならないで欲しいと歌っている。月は西行にとって煩悩を駆り立てるものだったようだ。西行といえば、桜と月がすぐ思い浮かぶように、桜を愛し月を眺め続けたわけだが、桜に命の高まりを感じたらしいのに対して、月には命のはかなさを感じたようである。

月を見ると自分の命がそう永らえないのではないかと不安を覚えることもあったようだ、たとえば次の歌
  いとふ世も月澄む秋になりぬれば永らへずとは思ひなるかな(山403)
これは、月が明るく澄み渡る秋になると、いとわしいこの世から去りたいと思うようになると歌ったもので、パセティックな感じが強く伝わってくる歌である。願わくは桜の木の下で死にたいと歌った西行が、月を見ると死にたくなるというのは、どのような心持ちからくるのだろうか、興味深いところである。


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