日本語と日本文化


五月雨:西行を読む


山家集の夏の部は、ほととぎすについで五月雨を歌った歌が多い。この部だけを対象にざっと数えただけで二十四首ある。五月雨は夏のうっとうしさを代表するようなものなので、かららずしも情緒豊かなものではないが、捉え方によっては歌にもなると、少なくとも西行は考えたのであろう。

そんな背景もあってか、万葉集には五月雨を主題とした歌は見当たらぬし、古今集でも二首見えるだけである。日本の和歌の歴史では、五月雨は新しいモチーフだったことがこのことからも伺える。それが和歌の新たな主題となったことについては、西行が一役かったといってよさそうだ。

五月雨は今でいう梅雨のことであるが、旧暦では梅雨の季節は五月に当たっていた。そこから梅雨のことを五月雨というようになったわけだが、この言葉が万葉集に見えないのは、その当時にはこういう言い方が行われていなかったからかもしれぬ。万葉集で梅雨をさす場合には、長雨と言う言葉が使われている。たとえば大伴家持の次の歌
  卯の花を腐す長雨の始水(みづはな)に寄る木屑なす寄らむ子もがも(万4217)

これは、長雨で増した水に寄る木屑のように多くの娘が寄ってきたらよいのにな、という気持を歌ったものである。長雨がかならずしもうっとうしいばかりとのみ受け取られていなかったことを物語る歌だ。

古今集の夏の部には、五月雨を歌った歌が二首ある。
  さみだれに物おもひをれば郭公夜深くなきていづち行らん(古153紀友則)
  五月雨の空もとどろに郭公なにをうしとかよただなくらん(古160紀貫之)

一首目は五月雨のそぼふる夜の間中郭公が鳴いていた、その郭公が夜明けとともにどこかへ飛んでいってしまった、と歌っている。二首目は、五月雨の降る夜の間中、ほととぎすは何を憂えてひたすらに鳴いているのだろうか、と歌う。どちらの歌でも、五月雨にほととぎすを配し、しかもそのほととぎすが夜中に鳴いているという光景を歌っている。五月雨がほととぎすと夜に結びつくことで、そこから恋についてのイメージが湧いてくるのは、そう不思議なことではない。

西行の五月雨の歌は、五月雨そのものよりも、五月雨のかもし出す季節感のようなものを歌ったものが目立つ。「さみだれの頃」という末句で終わる一連の歌はその代表的なものである。ここでその例をいくつかあげると、
  つくづくと軒のしずくをながめつつ日をのみ暮らす五月雨の頃(山211)
  東屋の小萱が軒の糸水に玉貫きかくるさみだれの頃(山212)
  水無瀬河をちの通ひ路水満ちて船渡りする五月雨の頃(山216)
  川わたの淀みにとまる流れ木の浮橋渡すさみだれの頃(山228)

一首目と二首目は、五月雨のために家に閉じ込められて、鬱陶しい日々を過ごさざるをえない屈託を歌ったもので、三首目と四首目は、五月雨のために水があふれ、そのために船で往来する人々の生活感が歌われている。いづれも、五月雨がかもしだす独特の季節感が歌われている。

また、五月雨の季節に縁の深いあやめや橘やほととぎすをあわせて読み込んだ歌もある。  
  あやめ葺く軒に匂へるたちばなにほととぎす鳴く五月雨の頃(聞73)
これは夏の季語を勢ぞろいさせていることで、うるさく感じられなくもないが、五月雨の頃の季節感をよく伝えた歌だと思う。




  
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