日本語と日本文化


秋の歌:西行を読む


山家集の四季部の歌の中でも秋の部の歌は最も多く二百三十七首を数える。古今集も同じであって、四季の部あわせて三百四十二首のうち秋の歌が百四十五首をしめる。その古今集の秋の部の冒頭は、藤原敏行の有名な歌である。
  秋きぬとめにはさやかにみえねども風のをとにぞおどろかれぬる(古169)

これは立秋を読んだ歌である。暦の上では秋が来たことになっているが、そうはっきりと目には見えない、だが風の音にはたしかに秋の気配を感じる、と歌ったものだ。立秋は旧暦では七月一日、いまの暦では八月初旬の立秋の頃に当たる。まだ残暑が厳しい時節だが、朝夕の風はひやりとして、秋の気配を感じさせる。だれもが感じたに違いない初秋の情緒を、この歌は巧みに歌っている。

このように、風の気配で始めて秋を感じるという歌は、古今集のほかの歌にも見える。たとえば、
  川風のすずしくもあるかうちよする波とともにや秋は立つらん(古170紀貫之)
これは、川に涼しい風が吹いて波が立っている、その波の立つ姿に秋を感じると歌ったものだ。「立つ」を波と秋の両方にかけて、立秋の季節感を強調している。

また風ではなく、ほかのもの、特に秋の季語といえるものを介して立秋をしったという歌もある。
  木の間よりもりくる月の影見れば心づくしの秋は来にけり(古184)
これは、木の間からもれ見える月影に秋の気配を感じると歌ったもので、秋の季語である月を見て立秋を感じたことを強調する。前の歌同様、秋の気配を風や月など自然の風物を通じて確認するというような形になっている。

万葉集にはことさら立秋にこだわった歌はないようである。そのかわり名月や紅葉に秋の深まりを感じる歌とか、七夕などの秋の行事を歌ったものが多い。万葉集に七夕の歌が多いのは、中国の影響だろうと思われる。秋の風を歌ったものとしては、額田王の次の歌が有名である。
  君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾動かし秋の風吹く(万1555)
これは自分の思い高ぶった恋心をなだめてくれるように秋風が吹くという趣旨であり、特に季節感を強調しているわけではない。秋風は恋心を強調するための小道具として用いられている。

同じような趣旨の歌として、大伴家持の次の歌があげられる
  秋さらば見つつ偲へと妹が植ゑしやどのなでしこ咲きにけるかも(万0464)
これは自分の恋を守り立てるための小道具としてなでしこが使われているわけで、なでしこそのものを強調しているわけではない。

西行は秋をどのように歌ったであろうか。山家集の秋の部の冒頭は次の歌である。
  さまざまのあはれをこめて梢吹く風に秋知る深山辺の里(山254)
これは、風に秋を感じるという点では古今集の立秋の歌と共通するところがあるが、古今集では秋風は立秋を感じさせるための盛り立て役のような役割に甘んじているのに、この歌では秋風の吹く深山辺の里が前景化するなど、自然の景物がこめこまかく歌われている。

また、西行の代表歌の一つとされる次の歌
  心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ
これは僧の身でありながら、鴫立つ沢の秋の夕暮れを見て、心無くも感動してしまった恥ずかしさのような気持を歌ったものだ。ここまでくると、秋はたんなる季節感を超えて、人間の感情に染み渡るものとして、情緒的に捉えられている。

こうした傾向は、新古今集にも共通したものだ。たとえば、
  いつしかと荻の葉むけの片よりにそそや秋とぞ風も聞ゆる(新286崇徳院)
  このねぬる夜の間に秋は来にけらし朝けの風の昨日にも似ぬ(新287藤原季道)
これらはどちらも、秋の季節感に自分の感情の襞のようなものを織り込んだ歌といえる。




  
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