日本語と日本文化


説経「をぐり」(小栗判官)


現存する説経本のなかでも、「をぐり」は筋立てが変化に富んで、場面の展開がスピーディーであり、また登場人物の情念が生き生きと描かれてもいるので、現代人にもわかりやすく、面白い作品である。そんなことから、ボートシアターの公演や、スーパー歌舞伎にも取り上げられ、大いに成功を収めたほどだ。

説経「をぐり」の表向きのテーマは、冒頭と末尾にそれぞれ、正八幡=荒人神の由来を説くことだといっているとおり、正八幡が人間であった時代の行いを述べることにある。説経というものは、もともとは寺社の縁起を語る語り物(唱導文学)として起こったものであり、語りを担った人々は、各地の寺社に隷属した下層の聖たちであった。「をぐり」の場合には、藤沢道場が重要な役割を占めていることから、正八幡の由来を説くとはいいながらも、藤沢の聖たちが中心になって物語を形作ったとも考えられる。

物語は、荒人神の前身たる小栗を介して、秩序への侵犯と其の報いとしての追放、主人公の死と再生、受難と報復などを、また、照手姫の揺るぎない献身を介して、人間の尊い愛について語る。特に、照手姫の存在感は圧倒的なもので、彼女の愛あるがために、物語を人間的で、しかもダイナミックなものにしている。

説経「をぐり」は、日本の中世の物語のなかでも、類希な恋愛物語だともいえるのである。

若年の小栗は「不調の者」として描かれる。不調とは、淫乱とか、秩序を乱す者という意味であろう。親の意に反して妻嫌いをした挙句、深泥池の大蛇と契り、それがもとで、父によって常陸へと流されてしまう。

常陸で流人の身となった小栗は、旅の商人後藤左衛門から照手という美しい姫のことを聞く。武蔵、相模両国の郡代横山の一人娘である。小栗は、親兄弟の了承を得ることなく、照手と手紙のやり取りを交わして、その心をつかむと、「一家一門は知らうと、知るまいと、姫の領掌こそ肝要なれ、はや婿入りせん」と、強引に婿入りをする。

怒った横山一門は、小栗をだまして殺そうとする。まず、鬼鹿毛という人食い馬に小栗を食わせようとして、死人の骨が散らばった馬場へと連れて行くが、小栗は、「やあ、いかに、鬼鹿毛よ、汝も生あるものならば、耳を振りたて、よきに聞け」と、鬼鹿毛を調伏して手なずけてしまう。人食い馬を自由自在に乗り回す小栗の姿は、まさに超人のように描かれていて、聞くものを感心させたに違いない。

小栗の怪力に怖気づいた横山一門は、今度は宴会に招いて毒殺しようと計る。父らのたくらみを予感した照手は、不吉な夢物語をして、小栗に行くことを思いとどまらせようとするが、小栗は10人の従者を引き連れて、横山の館に赴き、ついに殺されてしまうのである。

―さてこの酒を飲むよりも、身にしみじみとしむよさて、九万九千の毛筋穴、四十二双の折骨や、八十双の番の骨までも、離れてゆけとしむよさて・・・なう、いかに横山殿、それ憎い弓取りを、太刀や刀はいらずして、寄せ詰め腹は切らせいで、毒で殺すか横山よ、女業な、な召されそ、出でさせたまへ、刺し違へて果たさんと、抜かん切らん立たん組まんとはなさるれど、心ばかりは高砂の、松の緑と勇めども、次第に毒が身に染めば、五輪五体が離れ果て、さて今生へとゆく息は、屋棟を伝ふ小蜘蛛の、糸引き捨つるが如くなり

殺された小栗は土葬にされ、10人の従者は火葬に付される。また、照手姫は、体裁を考えた父によって、川に沈められようとするが、運良く助けられる。しかし、助けられた先の強欲な姥によって売りとばされ、さらに諸国を転々と売られゆくうちに、美濃の国青墓の遊女宿に売られてくる。青墓は東海道筋の宿場として、中世の頃より、名が通っていたところである。

遊女宿の主から、「流れの姫=遊女」になるように迫られながらも、それをはねのけ、毅然として生きていく照手の姿は、この物語の中でも、もっとも人の心を打つ部分である。

さて、小栗のほうは、地獄へと下る途中に、閻魔大王の采配によって、再び地上へと生き返る。この際、閻魔大王が小栗の身柄を、藤沢の上人に委ねるくだりは、この物語が、藤沢の念仏聖とかかわりあることを、推測させる。また、火葬された10人の従者は、体がないために生き返ることができず、小栗のみは、土葬されて体が残ったために生き返ることができたのには、当時の宗教観が反映されているのであろう。

3年の後に生き返った小栗の姿は、「あらいたはしや小栗殿、髪はははとして、足手は糸より細うして、腹はただ鞠をくくたやうなもの、あなたこなたをはひ回る」というものだった。藤沢の上人は「なりが餓鬼に似たぞとて、餓鬼阿弥陀仏」と名付け、閻魔大王自筆の御判に、この者を熊野本宮湯の峰に連れて行けとあるのを見て、小栗を土車に乗せて、引いていくのである。

この道行きの場面は、物語にとっての、一つの見せ場ともなっている。

―この者を一引き引いたは千僧供養、二引き引いたは万僧供養と書き添へをなされ、土車を作り、この餓鬼阿弥を乗せ申し、雌綱雄綱を打ってつけ、お上人も車の手綱にすがりつき、「えいさらえい」とお引きある・・・末をいづくと問ひければ、九日峠はこれかとよ、坂はなけれど酒匂の宿よ、をひその森を「えいさらえい」と引き過ぎて、はや小田原に入りぬれば、せはひ小路にけはの橋、湯元の地蔵と伏し拝み、足柄箱根はこれかとよ、山中三里、四つの辻、伊豆の三島や浦島や、三枚橋を「えいさらえい」と引き渡し、流れもやらぬ浮島が原、小鳥さへずる吉原の、富士の裾野をまん上り、はや富士川で垢離をとり、大宮浅間富士浅間、心静かに伏し拝み、者をもいはぬ餓鬼阿弥に、「さらばさらば」と暇乞ひ、藤沢指いて下らるる

「えいさらえい」と繰り返す上人の叫びが、小栗の復活を予言するものとして、聞くものの心をとらえたことであろう。

この後、次々と引かれ続けて青墓の宿にたどり着いた小栗は、そこで、照手との運命的な再会をする。だが、餓鬼阿弥となった小栗には、声を発することもかなわず、照手のいる遊女宿の前に三日の間立ちつくすばかり。

照手も、餓鬼阿弥が小栗であるとは露もしらず、小栗の胸札にあった「この者を一引き引いたは千僧供養、二引き引いたは万僧供養」との言葉に感じ、やっと太夫に許しを乞うて、小栗の土車を引いていくのである。

この場面における照手の姿は、人の愛というものがかもしだす、もっとも美しいものといえるのではないか。

―照手この由聞こしめし、余りのことのうれしさに、徒やはだしで走り出て、車の手縄にすがりつき、一引き引いては千僧供養、夫の小栗の御ためなり、二引き引いては万僧供養、これは十人の殿原たちのおためとて、よきに回向をなされてに、承れば自らは、なりと形がよいと聞くほどに、町屋、宿屋、関々で、あだ名とられてかなはじと、また長殿に駆けもどり、古き烏帽子を申し受け、さんての髪に結びつけ、丈と等せの黒髪をさっと乱いて、面には油煙の墨をお塗りあり、さて召したる小袖をば、すそを肩へと召しないで、笹の葉にしでを付け、心は者に狂はねど、姿を狂気にもてないで、「引けよ引けよ子どもども、物に狂うて見せうぞ」と、姫が涙は垂井の宿

照手は大津の関寺まで土車を引いてきたところで、太夫との約束の期限が迫ったため、青墓に戻ることになるが、土車は引き続き人びとに引かれ、最後には山伏に背負われて熊野本宮湯の峰に至り、そこで劇的な復活をとげるのである。

―なにか、愛洲の湯のことなれば、一七日お入りあれば、両眼が開き、二七日お入りあれば、耳が聞こえ、三七日お入りあれば、はや物をお申しあるが、以上七七日と申すには、六尺二分、豊かなる元の小栗殿とおなりある

復活を果たした小栗が、父親と再会し、帝から領地を賜ったあとに、むかしの仇を返すことは、「さんせう太夫」の厨子王丸と同じである。だが、仇の返し方は、随分と異なっている。照手を売り飛ばした姥だけは、肩まで生き埋めにされたうえ、地上に出た首を竹で引かれる憂き目に会うが、青墓の太夫や横山らほかのものは、寛大な処置を受けたり、かえって褒美までもらったりする。陰惨なイメージとは遠いのである。

以上、物語のあらすじをたどってきたが、この物語が現代人の我々をも魅了するのは、照手の愛に表現されたような、人間の生き様が胸をうつからかもしれない。

説経には、「さんせう太夫」に見られるような、陰惨で目をそむけたくなるような描写が多い。中世を生きた民衆たちの抑圧された情念が反映した結果、そのような陰惨さが、迎えられたのであろう。一方、「をぐり」の場合には、毒殺の場面にしても、照手の受難にしても、陰惨を強調するというよりは、主人公たちの強い意志や、それでもなお屈せざるを得ない運命を強調するところある。

巨大な運命の力に抗しながら、力強く生き抜こうとした主人公の姿が、中世の民衆に救いの感情をもたらし、また、それが現代人にも訴えかけてくるのであろう。

説経「おぐり」全編は、主人公の死と再生、因果応報をテーマにしている。そのなかで、照手の愛は格別の光を放ち、物語に温かな色を添えた。照手の強い生き様は人の胸を打つ。このことが、この作品を恋愛物語といった、筆者の飾らぬ気持ちなのである。


    


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