日本語と日本文化


森鴎外「伊沢蘭軒」


森鴎外史伝三部作の第二「伊沢蘭軒」は、「渋江抽斎」の新聞連載終了後、「寿阿弥の手紙」の連載を挟んで、ほぼ一ヶ月後には連載が始められている。鴎外は渋江抽斎について書き進んでいくうちに、抽斎の師であった蘭軒に深い関心を抱くようになり、この人物についてどうしても書いてみたいという強い衝動にとらわれたらしい。

鴎外は何故伊沢蘭軒という人物にかくもこだわったのであるか。

蘭軒が抽斎同様医師でありかつ官吏であり、また考証学に深い造詣を持ち、詩文はじめ文芸にも親しんでいたことなどは、理由のひとつとしてあげられよう。だがそれのみを以てしては、鴎外の意思を言い尽くすことはできまい。

なにしろこの作品は、「渋江抽斎」の倍以上の分量に上る大作であり、そこには抽斎の場合における以上に、洋々たる大河のような物語の流れが見られる。鴎外の蘭軒に対する打ち込みようには、ただならぬものが感ぜられるのである。

伊沢蘭軒も渋江抽斎同様歴史的には無名に近く、その事跡は時の彼方に埋もれていたも同然であった。彼が生きた時代は文化文政の時代であったが、その時代の日本は鎖国によって世界から孤立し、閉ざされた小宇宙であったながらも、それなりに円熟した文化を醸成し、人びとは落ち着いた生活を営んでいた。こんな時代に、蜀山人こと太田南畝や菅茶山、頼山陽といった人物が輩出し、独特の文芸文化が花開くのであるが、伊沢蘭軒もそうした文人たちに混じって遜色なく、時代の雰囲気を体現しながら生きていた。

鴎外はそんな蘭軒の姿に、文化文政期というひとつの時代相を象徴する人物を見出し、彼を軸にしてこの時代に生きた人間たちの生き様を抉り出そうとしたのではないか。彼がこの時代を象徴する人物として、茶山や山陽ではなく蘭軒を選んだのは、やはりそこに個人的な思い入れのようなものが働いたからであろう。

鴎外は「渋江抽斎」の後半部で用いた方法を、この作品でも意識的に使った。編年体による叙述である。作品は主人公蘭軒の生涯を追って縦軸に展開していくとともに、その間に蘭軒の友人知人たちの逸話をさしはさみ、横へのふくらみを持たせている。しかもその叙述は蘭軒の死を越えて、その子孫に至るまで三代百年の長きにわたっている。

「渋江抽斎」の際には参照できた事実に関する篇年式の記録が、「井沢蘭軒」の場合には著しく乏しかった。鴎外はそれを補うために菅茶山の書簡や詩文、そして蘭軒自身の未公刊の詩文集を材料に使った。その結果この作品は、詩文の引用が多くなり、一種独特の雰囲気を持つようになった。その辺の事情を鴎外は、冒頭に近い部分で次のように述べている。

「其材料の扱方に於いて、素人歴史家たるわたくしは我儘勝手な道を行くこととする。路に迷っても良い。若し進退これ谷まったら、わたくしはそこに筆を捨てよう。所謂行当ばったりである。これを無態度の態度といふ。無態度の態度は、傍より見れば其道が険悪でもあり危殆でもあらう。しかし素人歴史家は楽天家である。」

一篇は蘭軒二十一歳のときに、江戸に出てきた頼山陽が井沢家に寄寓することから始まる。小堀桂一郎の考証によれば、これは鴎外の誤解で、実際に尋ねてきたのは山陽の父春水の従弟千蔵という人物であったらしいが、鴎外があえてこの逸話を選んだのには伏線があった。つまりこれから展開していくであろう、文化文政時代の文人たちのつながりを、山陽と蘭軒の出会いにおいて象徴化しようとしたのである。

これ以降蘭軒の生涯を追って展開していく物語は、物語というに耐えるような変幻性を殆ど有していない。そこに展開するのは蘭軒一家の静かな日常の生活ぶりであり、また文人の間に交わされた風雅のやりとりである。これを評して石川淳は、「蘭軒全篇を領するものは異様な沈静である」といっている。

鴎外はこの「異様な沈静」の中で生起する出来事を淡々と綴っていく。沈静であったのは時代そのものなのであって、その中で生きる人々は、沈静な雰囲気の中で、それなりに円熟した生を生きていた。鴎外は素人歴史家としての自覚をもって、それを抉り出しているのである。

蘭軒一家の生活そのものが極めて変化に乏しく、毎日が代わり映えしない出来事の連続である。彼らはその代わり映えしない日常の合間に、春は墨堤に桜を訪ね、夏は不忍池に蓮をとり、秋は滝野川に紅葉狩りを行なう。そしてその折々の感慨を蘭軒は詩にしたため、友人たちと見せ合っては満足を覚える。

蘭軒の周囲にはさまざまな人物が登場する。それらの人々の多くは蘭軒同様変化に乏しい日常を生き、その合間の感慨を詩文にしては楽しむといった生活に耽っている。この小説の前半部分はそうした人々の詩文を紹介し、それをもとに当時の時代層をあぶりだすことに費やされているのである。

蘭軒の知人たちの中で最も頻繁にとり上げられているのは菅茶山である。茶山は蘭軒の師でもあり、蘭軒より二十九歳も年長であったが、この作品において両者は師弟関係というよりも、心を許した友人同士の間柄として描かれている。晩年の茶山が福山から江戸の蘭軒宛に送った手紙などは、二人の間の親密な友情をほのぼのと感じさせる。

鴎外は、井沢蘭軒という地味な人物の変化に乏しい生涯を追っていきながら、文化文政という時代の、円熟してはいても、それ自身の中に閉ざされた小宇宙の静かな雰囲気に出会い、それに郷愁のようなものを感じたようである。そしてそこに生きた人びとの間に、人間的で親密な情愛が交わされていたのを知って、心の安らぎのようなものを感じたのではないか。

この作品が前作「渋江抽斎」以上に評判が悪いことは、鴎外自身も十分気づいていた。それに対して鴎外は次のように弁明している。

「蘭軒伝の世に容れられぬのは、独り文が長くして人を倦ましめた故ではない。実はその往時を語るが故である。歴史なるが故である。」


    


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