日本語と日本文化


森鴎外「渋江抽斎」


森鴎外が武鑑の収集を通じて、渋江抽斎という歴史上の一人物に出会った経緯については、先稿でも述べたとおりである。鴎外はこの人物が、武鑑という普通の感覚ならあまり面白くもないものに情熱を注ぎ、その傍ら学者として古い文献の考証に力を注いでいたらしいことを知るに及び、俄然その人物への関心の高まるのを感じ、その人物について多くを知りたいと思うようになった。そしてこのような思いがやがて実を結んで、鴎外の最高傑作ともいえる「渋江抽斎」の執筆へとつながっていくのである。

とにかくこの人物のことを始めて知り、その何者かについて疑問が沸くのを感じて以来、その事跡の調査にとりかかる鴎外の姿勢には尋常でないものがあった。鴎外は少ない手がかりから、この人が津軽藩と縁があると目星をつけて、知人をはじめその方面の情報を集めるうち、その子息が現存していること、また渋江抽斎その人の墓が谷中の感応寺にあることを知って、早速苔を掃いに赴いている。

こうして鴎外には渋江抽斎の著述の写本数点と、その子保氏による父抽斎の回想録が残った。回想録といっても抽斎が死んだとき保氏はまだ二歳であったから、自分自身の記憶にもとづくものではない。母親の五百から聞いていたことを思い出して綴ったものである。

鴎外はこの回想録を導きの意図として、時に抽斎自身の詩や著述を引用しながら、渋江抽斎という人物の史伝を展開していくのである。

それにしても何故鴎外は、この無名の人物にかくも傾倒し、その詳しい史伝を書こうと思い立ったのか。

それ以前に鴎外が取り上げた歴史小説の主人公たちは、それぞれ多かれ少なかれ歴史上の意義というものが認められ、その限りで個人としての興味を引くところもある人物だった。渋江抽斎はそれに反して、歴史上の意義などとは無縁で、ただ一学者として変化に乏しい一生を送っただけの人物である。

渋江抽斎に対して鴎外が抱いた親近感を、鴎外自身次のように記している。

「抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして経書や諸子のやうな哲学方面の書をも読み、歴史をも読み、詩文集のやうな文芸方面の書をも読んだ。其跡が頗るわたくしと相似ている。」つまり自分と似ていることへの親近感をまず述べているのである。鴎外はまた次のようにも書いている。

「抽斎はかつてわたくしと同じ道を歩いた人である。しかし其健脚はわたくしの比ではなかった。はるかにわたくし優った済勝の具を有してゐた。抽斎はわたくしのためには畏敬すべき人である。」

健脚とは文字通りに歩む力というよりは、そのスケールの大なることを言っているのであろう。鴎外は抽斎についてそういうことで、彼が自分よりはるかに偉大であったことを強調したかったのである。

だが抽斎のどこが偉大で、どこが人間として敬愛すべきなのか、「渋江抽斎」一篇を読み終えても、なかなか形をとって現前してこないと感じるのは、ひとり筆者のみではあるまい。

この史伝は全部が抽斎その人に当てられているわけではない。全部で119節からなる構成のうち、抽斎を直接描いているのは前半のみで、後半はその子息の辿った運命を記述することにあてられている。しかもその前半部においても、抽斎という人物にめぐり合い、その像を明らかにしようとする鴎外の努力が述べられ、またその後も、抽斎をめぐる人物たちの紹介が延々と続いたりして、抽斎その人の記述はそう多くはないのである。

これには抽斎その人にかかわる情報が、限られていたこととも関係があろう。なにせ子どもの保氏が母親から聞いたこと以外に、抽斎にまるわる情報は殆どなかったのである。それにもかかわらず、その少ない情報から鴎外が汲み取った抽斎像にはある確かなものがあった。

渋江抽斎の周辺には、師の世代として、市野迷庵、狩谷?斎、伊沢蘭軒、池田京水といった人物たちがあり、ほぼ同世代として、安積艮齋、小島成斎、海保漁村、森枳園らがある。必ずしも高名のものばかりではないが、文学史上名を残したものがあり、またその人柄において尊敬すべき人物も含まれている。抽斎はこれらの人物像に混じって光彩を鈍くするどころか、でんとしてその中心に座するがごとき風格がある。

鴎外はこうした人物たちとの抽斎の交際の中に、人間としての敬愛すべき生き方を見出したのだと思えるのである。この作品はいわば幾重もの友情の糸に織り成された、人間の温かい交際の記録であったとも言える。

抽斎自身の思想や感情について、鴎外はあまり記すところがないが、ひとつだけ安政の黒船来航に際して、抽斎が主家のために草した意見書を取り上げている。それは尊王の立場から、国家のあり方を憂えた内容のものである。そのこと自体には、あまり大した意味はなかったかもしれないが、鴎外はその事実に言及することによって、抽斎がいやおうなく時代の流れに立ち向かわなければならなかった事情をほのめかせている。

渋江抽斎が生きていた時代は、文化文政の爛熟した時代の後の、日本の国がやや傾きかけていた頃であった。そして天保の混乱した時代相を潜り抜けると、その先には黒船来航以後の一層の混乱が待っていた。抽斎はこうした時代にあって、常に自分というものを見失しなわなかった。己自身に泰然自若であったとともに、国の外憂に対しては鋭く触覚を働かせた。

鴎外はそうした抽斎の生き方の中に、人間の自立と尊厳を感じるとともに、彼を取り巻く友人たちとの交友関係の中に、ほのぼのとして、また滅多に達成しがたい、人間としての暖かさ、生きることのぬくもりを感じたのだろう。

鴎外は自分と渋江抽斎の生き方を引き比べて、そこに羨望のようなものを感じたのではないか。自立という点ではともかく、鴎外は人間の暖かさという面では、そんなに幸福な人生を生きたわけではなかったようなのである。


    


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