日本語と日本文化


渋江抽斎の妻:森鴎外理想の女性像


森鴎外の史伝体小説「渋江抽斎」において、最も精細を放っている人物は、主人公抽斎本人というより、その妻五百であろう。五百がいなかったとしたならば、抽斎の人生もいっそうわびしく映り、したがってこの小説の面白みは半減してしまったに違いない。それほど彼女の存在感は大きい。しかもこの作品の後半は抽斎没後の家族の消息にあてられ、そこでは五百の存在感は全体を多い尽くすほど大きなものになるのである。

この五百という女性の人物像を、鴎外は五百の末子保氏の思い出をよりどころにして描いている。したがってそこには、母親に対する子の感傷的な思いも潜んでいたであろう。だが鴎外は子どもの感傷というには言い放てない、なにか優れた資質を五百という女性の中に見出し、自分でもこの女性に惚れ込んだのでないか。

五百は抽斎の没後、生まれたばかりの子どもを含め残された一家を支え続けた。維新の動乱に際しては、生き残るためにはるばる津軽に向けて、一家を率いて落ち延びていった。その姿には、女性として妻として、また母として感嘆に耐えない高貴な輝きがある、そう鴎外は感じ入ったに違いないのだ。

そんな五百の芯の強さを表わしている逸話を、鴎外は「その六十」以後で紹介している。

さる貴人が金に困却し零落に瀕しているのを知った抽斎は金策のためとて無尽講をたてて、親類知人から金を集めた。ところがその金の所在を聞きつけたらしい者たちが現れ、自分たちがそれを届けると偽って、抽斎に対して金を渡すようにと迫った。抽斎は相手が金目当ての賊であることを悟って、さていかがしたものかと思案しているうち、折から入浴中の五百は事態の容易ならざるを知って、裸体のまま風呂を飛び出すと、匕首を銜え、熱湯を汲んだ桶を手にして現場に直行した。五百は夫の前に立ちはだかると、「沸き返る上がり湯を盛った小桶を、左右の二人の客に投げつけ、銜えていた懐剣をとって鞘を払った。そして床の間を背にして立った一人の客を睨んで、「どろぼう」と一声叫んだ。」

五百自身はこの時のことが話題に上るたびに、赤面して席をたったと、後に鴎外は記しているが、武士の妻としての五百の律儀さを物語る象徴的な場面である。こうした律儀さが、主人が死んだ後の一家を立派に支え続けさせるのである。

五百は商家の娘として安政13年に生まれた。抽斎よりは11歳年下である。父忠兵衛は商人ながら文芸をたしなみ、嫡子栄次郎を抽斎のもとで勉学せしめたほか、娘の五百には大名のもとで修行することを進めた。十一、二歳の時には本丸勤めをしていたらしい。その後相応しい奉公先を求めて歩き回った後、藤堂家に仕えた。15歳のときである。24歳で奉公をやめ、29歳のとき抽斎の妻になった。抽斎はすでに二度結婚し、前妻との間には3人の子があった。

五百は嫁入りするに当たって、一旦武家平野氏の養女となった。おそらく身分の懸隔を生めるための工作だったのであろう。五百の実家は傾きかけていたとはいえ、相当の嫁入り支度を五百に持たせた。この結婚の直前抽斎は幕府の直参に出世し肩書きにも箔が付き、門人も多く抱え、何かと物入りであった。五百の持参した金は大いに役立ったのである。

五百が抽斎のためにけなげに生きたことは、さきの逸話からも感じ取れるだろう。前妻の残した子のほか自らも子を生み、双方隔てなく養育に当たった。だが安政5年に当時流行したコレラに抽斎もかかってあっけなく死んだ。時に抽斎の没年54、五百はまだ44歳であった。

養父の平野氏が自分の家に来るように誘ったが、それは五百のことを知らないもののいうことだと鴎外は言っている。五百は養父といえども人の世話になることを望まず、女手ひとつで残された家族を支え続けようとしたのである。

抽斎没後の遺族の生き様について、鴎外は「抽斎没後何年」といった編年体の形式をとって逐次述べている。年代が下るにつれて、幕末維新を吹きぬけた時代の風が彼らの中にも忍び込んでくる。圧巻は明治元年の記述である。幕府が倒壊し、幕府方の遺臣として身の不安を恐れた五百は、主家津軽家のある弘前を目指して、江戸を脱出する。鴎外が描写するその有様には、時代の波に翻弄されながら、生きることに望みを託す人々の、それこそ命がけの行為が読み取れるのである。

江戸を出て弘前に向かう途中、子どもたちを連れた五百の一行は行く先々で何度も誰何に出会う。そのたびに五百は見えざる敵に身構えをせずにはいられなかった。末子つまり保氏には女装までさせて、難局を図ろうとする、そこには生きることへのあくことなき執着が感ぜられる。この執着なくしては、人間は弱いままなのだと、鴎外は言外にほのめかしている。

五百の最晩年は、息子たちの成功にも助けられて、やや穏やかなるを保ちえたようだ。

鴎外が何故、渋江抽斎という人物の史伝を書かんと欲して、その死後にわたるまで延々と書き続けたのか、その秘密の一端が五百という女性に寄せた鴎外の感動にあったのではないかと、筆者は考えるのである。

五百には鴎外自身の母親に似たところがある。鴎外はそう感じたのであろう。鴎外自身の家族も、維新前後の風波に飲み込まれながら、それを乗り越え、何とか時代の波に乗れることが出来た。それには鴎外の母親の果たしたものが大きかった。鴎外はそこに自分の母親と五百の姿を重ね合わせたのではないか。

日本人にとって、女は常に表向きは控えめに振舞いながら、実は家族、ひいては社会をも律するような働きをしてきた。女が優秀であったから、日本人は勤勉な民族としてここまで生きてこられた。そんな思いを、鴎外は自分の母親や五百という遠い昔を生きた女性にことよせながら、強く感じたに違いない。

だから「渋江抽斎」と題したこの小説の真の主人公は、その妻五百であったと言っても、言い過ぎではない。


    


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