日本語と日本文化


鴎外の史伝三部作:石川淳「森鴎外」に寄せて


森鴎外最晩年の文業を飾るものは、「渋江抽斎」、「伊沢蘭軒」、「北條霞亭」の、今日史伝三部作と称される作品群である。これらは発表時世人から受け入れられること甚だ薄く、「北條霞亭」にいたっては、連載していた大手新聞社から事実上連載の中断を迫られるほどの扱いを受けた。これらの作品群は鴎外存命中はもとより死後しばらくの間、彼の文業を代表するものとは評価されなかったのである。

これらを改めて取り上げ、鴎外の最高傑作と位置づけなおしたのは昭和の碩学夷齋居士こと石川淳である。石川淳は三部作のうち「抽斎」と「霞亭」をより高く評価し、次のように書いている。

―「抽斎」と「霞亭」と・・・この二編を措いて鴎外にはもっと傑作があると思っている人をわたしは信用しない。「雁」などは児戯に類する。「山椒大夫」に至っては俗臭芬々たる駄作である。

石川淳は鴎外のこれらの作品を何故かくも高く評価したのか。彼はまず次のように言う。これらの作品が人の胸を打つ所以は、「文章のうまい史伝なるが故に、人はこれに感動するのではない。作品の世界を自立させているところの一貫した努力が人を打つのみである。・・・鴎外晩年の史伝は「雁」「ヰタ・セクスアリス」ほど読者の数を持ち得ないにきまっている。むつかしい字が使ってあるせいでもなく、話がしぶいせいでもなく、努力のきびしさが婦女幼童の智能に適さないからである。」

婦女幼童の智能に適さないほど厳しい努力があるといわれても、我々読者は、何故それが作品の価値につながるのか、このままではわからない。そこで、史伝の個々について石川淳がいうところをもとにして、彼が作品の魅力をどうとらえたかに迫っていかねばならない。

渋江抽斎は鴎外によって発掘せられるまでは歴史上無名の人物であった。鴎外がこの人物と出会ったのは全くの奇縁によるものである。鴎外は「興津弥五右衛門の遺書」を執筆したのをきっかけにして、一連の歴史小説を書き綴るうち、歴史上の人物にかかる細かい情報を求めるために、武鑑を手広く収集するようになった。武鑑とは徳川時代の武家にかかわる情報を収載したもので、いわば紳士録と履歴書とをあわせたようなものである。歴史家はそれを読み解くことによって、徳川時代に生きた人物の大まかな情報を得ることができる。

鴎外はその過程で、徳川時代に自分と同じように武鑑を収集していたものがあったことに気づいた。そこでその人の消息を追っていくうちに、渋江抽斎という一人の興味ある人物にたどり着いたのだった。しかもその人物は医者でありまた官吏としての経歴やら、文業にいそしんでいた姿勢やらが自分によく似ている。こうして鴎外は、今まで無知であったその人物にかかる情報を捜し求め、それに基づいて、手探りのような努力の中から「渋江抽斎」一篇を書き上げたのである。

その辺の事情を鴎外自身次のように書いている。「抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして経書や諸子のやうな哲学方面の書をも読み、詩文集のやうな文芸方面の書をも読んだ。その跡が頗るわたくしと相似てゐる。・・・抽斎は宋暫の経子を求めたばかりでなく、古い武鑑や江戸図をも玩んだ。若し抽斎がわたくしのコンタンポランであったなら、二人の袖は横丁の溝板の上で擦れ合った筈である。ここにこの人とわたくしとの間に馴染が生ずる。わたくしは抽斎を親愛することが出来るのである。」

鴎外自身のこんな言葉を引きながら、石川淳は、この作品の魅力を形作っているのは、ひとりの人間が別の一人の人間に対して抱く親愛と共感であり、それがかもし出す暖かい雰囲気なのだといいたいようである。彼は鴎外が抽斎に対して抱いた感情こそがこの作品の魅力を作り上げているのだといいたかったのだろう。

その鴎外の抽斎に対する思いを、石川淳は次のように書いている。「おぼろげな未完成の抽斎像に於て、鴎外がいち早く捕らえた生命の息吹は自分の内部なる感動よりほかない。・・・鴎外の目はただ愛情に濡れていたのである。」

この愛情が作品を貫き、描かれる対象たる人物と描く当人である作者との距離を埋め、そこに類希な人間的な息吹を生成せしめる、そこから作品のあの暖かさが生まれてくるのだ、そう石川淳はいいたいのであろう。

「伊沢蘭軒」は「渋江抽斎」の執筆の延長上に生まれた作品である。蘭軒は抽斎の師であり、その経歴学業ともに鴎外自身に似るところがあったから、鴎外は必然蘭軒にも深い共感を覚えた。しかして鴎外には「抽斎」執筆の経験から、史伝の構成について強い自信があった。この自信にもとづいて、鴎外はこの長大な作品を比較的短時間で書き上げるのである。

「伊沢蘭軒」について、筆者は稿を改めて論じたいと思うが、これを先取りして一言で言えば、文化文政時代における文人たちの生き様を、鴎外が共感を持って大らかに描いた作品と評することができる。そこに描かれているのは、蘭軒と菅茶山との間の友情を中心とした文人たちの温かい交流であり、また文化文政期の円熟した時代の雰囲気であった。後半では蘭軒の子孫にかかわる事情が経年的に語られ、作品全体としては三代百年にわたる一族の歴史というべき体裁をとっているが、やはり作品の眼目は蘭軒を中心とした人びとの間の暖かい友情にある。

この「伊沢蘭軒」について、石川淳は「<蘭軒>全篇を領するものは異様な沈静である。」といい、また「出来上がった作品としては<蘭軒>はついに<抽斎>に及ばない。」といっている。けだし人物に対する作者鴎外の態度が「抽斎」におけるようには情熱を表に出さず、淡々と筆を進めているところがこのような感じ方をさせたのであろう。しかし筆者は、「蘭軒」は「抽斎」に劣らずとの印象を持っている。そこに描かれた友情が読む人をして感動せしめ、また三代百年にわたる歴史意識の確かさが「抽斎」よりスケールの大きいことを感じさせるからである。

史伝最後の作品「北條霞亭」を、石川淳は「渋江抽斎」に劣らない傑作であると評価している。しかしその評価の視点は「渋江抽斎」の場合におけるとは多少事情を異にしている。

石川淳は「渋江抽斎」については、抽斎という人物の中に、鴎外はもとよりそれを読むものにも親愛を感じさせるものあったといっている。その人物像が作品そのものにも反映して、読者の共感を呼び、それが作品の奥の深さにつながっているというのだ。

しかし北條霞亭という人物については、次のように手厳しい言い方をしている。

「俗情満々たる小人物である。学殖に支持され、姿態に粉飾されて、一見脱俗清高の人物かと誤認されるだけに、その俗物ぶりは陰にこもって悪質のものに属する。」

このように、人物としてはつまらぬ男をテーマにしながら、作品としては評価に耐えるものとなっている、と石川淳はいう。何故そうなるのか。石川淳はその辺をあまり詳しくは論じていない。

この作品においても、「抽斎」の場合におけると同様、鴎外は主人公たる霞亭という人物に相当感情移入している。鴎外はこの作品を「霞亭とは何者ぞ」という自問自答から始めているのである。そうした鴎外の意気込みが作品に伝わって、作品の美しさが実現したのだろう。その意気込みの前では、当の主人公が多少つまらぬ男であっても、決定的な瑕にはならない、どうも石川淳はそう言いたげである。

鴎外は若き日の北條霞亭に、己のなしえなかった理想の姿を認めて、すでにして恋情というべきものにとらわれてしまった。鴎外はその恋情をバネにして作品を書き続けたのであった。

だが鴎外は、石川淳がいうような霞亭の矮小さに気づくようになった。しかもその矮小さはある意味で、鴎外自身が身につけていたものでもあった。この発見は鴎外にとって心痛のことだったに違いない。石川淳は次のように書いている。

「自分の内部の情緒が結託したところの、親愛する人間像を追求していく途中で、鴎外はその対象の人物のいやなものにそろそろ気がつきだしたに相違ない。気がついて、これを放擲するか、あるいは剔決するに至らなかったのは、いや、むしろ「霞亭生涯の末一年」においてますます身をもってこれをかばうかと見えるのは、おそらく鴎外自身のうちにそういう種類のいやなものが潜んでいたせいではなかろうか。何も鴎外の大にケチをつける次第ではない。しかし、鴎外の大の中にもはなはだ霞亭的は小部分があったらしいと診断するのは別の話である。ただ鴎外の場合では、その霞亭的なものがよく作用したのであろう。おかげで、学問芸術の士にして、明治の官僚イエラルシイを馬に乗って駆け上って生けたのであろう。」

なかなか手厳しい見立てである。しかしそういわれても、鴎外晩年の史伝三部作に流れる人間的な感情の部分は、時代を超えて人の胸を打つ。友情や敬愛など人間的な感情に乏しくなってしまった今日の日本だが、そんな時代に生きる我々だからこそ、鴎外の作品の中から汲み取るべきものが多いのではないか。


    


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