日本語と日本文化


森鴎外「阿部一族」:殉死に見る封建道徳の打算的側面


森鴎外は乃木希典の殉死に衝撃を受け、乃木の心情を弁蔬するために、「興津弥五右衛門の遺書」を書いた。というのも、当時の世論は乃木の行為に対してとかく批判的であり、その意義を理解しようとしないばかりか、笑いものしようとする風潮まであったので、鴎外はこのまま見捨てては置けないと考えたのである。だが鴎外は、乃木の殉死を弁蔬しながらも、古来武士の美風とされてきた殉死というものには、単に個人の真情の範囲にとどまらない、複雑な背景があったのだということに気づくに至った。

森鴎外は殉死というものを、単に主君の恩愛に応える家臣の一方的な献身行為だとするのは、いささか短絡的だと思うようになった。そうした視点から「興津弥五右衛門の遺書」を書き換えるとともに、殉死というものについて一歩踏み込んだ作品「阿部一族」を書いてみることにしたのである。

「阿部一族」は許されなかった殉死をきっかけにして、主君の罰を蒙り、ひいては一族もろともに滅びなければならなかった悲劇を描いた作品である。事件の舞台は興津弥五右衛門の場合と同様肥後細川藩であるが、弥五右衛門が殉死した万治元年(1658)より一世代遡る寛永18年(1641)におきたことである。

殉死が幕府によって法度とされるのは二十年も後のことである。阿部一族の悲劇が生じた時代にあっては、殉死は武家社会の中にまだ確固とした慣習として根強く残っていた。

鴎外は藩主細川忠利の死から筆を起こす。忠利の荼毘に付される間、忠利が生前可愛がっていた二羽の鷹が井戸に落ちて死んだ。これを誰言うともなく殉死だという噂が広まった。ここから、家臣たちの殉死の話が展開する。

興津弥五右衛門の場合には、殉死は弥五右衛門個人の真情から自然に起きたという具合に語られていたが、ここでは殉死はそう簡単にできるものではなく、一定の掟があるのだということが述べられる。それを鴎外は次のように書いている。

「殉死にはいつどうして極まったともなく、自然に掟ができている。どれ程殿様を大切に思へばといって、誰でも勝手に殉死が出来るものではない。太平の世の江戸参勤のお供、いざ戦争といふ時の陣中へのお供と同じことで、死出の山三途の川のお供をするにも是非殿様のお許しを得なくてはならない。その許もないのに死んでは、それは犬死である。」

この後鴎外は、忠利の後を追って殉死したもの18人について言及しているが、彼らは皆忠利の生前に殉死を許されていた者たちなのである。その一人内藤長十郎に即して、鴎外は殉死をめぐる当人の心情について、その内実をあぶりだしている。

長十郎は、病床の忠利を介護しながら、殿様の日頃の愛顧に感謝し、殿様が死んだら是非殉死することを許して欲しいと願い出る。長十郎の心理には無論、興津弥五右衛門の場合と同じような真情も働いているのだろうが、しかしそれのみにはとどまらない。自分の殉死は自分の子孫にとっては、末代まで恩恵となるだろうという打算も働いていたのである。

長十郎は一方では、「人は自分が殉死する筈のものだと思ってゐるに違ひないから、自分は殉死を余儀なくせられてゐる、、、若し自分が殉死せずにゐたら、恐ろしい屈辱を受けるに違ひない」と思っている。長十郎はまた、殉死が個人の内面に発する問題としてのみにとどまらず、世間の目に促されて余儀なくさせられるような、対面上のことなのだともいっている。

長十郎は、「旬死者の遺族が主家の優待を受けると云ふことを考えて、それで己は家族を安泰な地位に置いて、安んじて死ぬことができる」とも思う。これは殉死のもつ打算的な側面を語ったものだ。

ほかの17人が殉死を願い出た動機も似たようなもので、そのなかには打算のほうが先に立っているようなケースも見られたのである。

これに対して忠利のほうは、有為な人材をむざむざ死なせるのは本意ではないと思いながら、家臣の心にほだされて許してしまう。だが忠利は誰であっても殉死を許したのではなかった。そこには生前の自分との関係で、自ずから選択が働いていたのである。

阿部弥一右衛門は殉死を許されなかった一人だった。弥一右衛門は家格の高い家臣であったが、融通が利かず、忠利は日頃から煙たがっていた。殉死を許されなかったことを不服に思った弥一右衛門は、同輩から殉死もできない卑怯者と後ろ指を差されるのが悔しくて、自分勝手な判断で、子孫たちを集めるとその前で腹を切って死んだのだった。自分では殉死したつもりだった。

だが細川家はこれを殉死とは認めず、お仕置きとして阿部の家督を分割してしまった。これを不満とした弥一右衛門の嫡子権兵衛が、忠利の一周忌の席上、髻を切って霊前に供えるという暴挙に出た。それに対して細川家は、権兵衛を縛首にして見せしめた。武士としては耐え難い屈辱であった。ここから阿部一族の悲劇が展開する。

阿部一族は結束して屋敷に立てこもり、女子どもを自分たちの手で殺した上、細川家に対して徹底抗戦の姿勢をみせた。これに対して、細川家の使わした者の中には、殉死をめぐって苦々しい思いをさせられていた者もいた。竹内数馬がそれで、生前の忠利の恩顧に応え殉死を願い出たがゆるされなかったことを深く不名誉に受け止めていた。数馬はこれ以上生き恥をさらし続けるのは耐えられぬことと考え、この戦をいい機会にして、そこで討ち死にしたいと考えているのである。

殉死をめぐって、因縁を持つもの同士が、凄惨な戦いを繰り広げる。その戦いの場面を読むと、そこには封建時代に生きた武士たちの、やりきれない気持ちが伝わってくる。

阿部一族の悲劇を通じて、鴎外が言いたかったことは何か。

鴎外は、殉死には自然の掟があるといっている。殉死はまず主君の許しを得た者でなければすることができない。そうでなければただの犬死なのである。他方殉死を願う者の心の中には、単に真情だけにとどまらず、打算的な思惑もある。殉死は子孫に恩恵を与えるという面だけではなく、それから漏れた者たちには、耐え難い屈辱を与えるものでもあった。個人の抜き差しならぬ体面にかかわることでもあった。

鴎外は、徳川時代の初期に生きていたこうした武士たちの生き方を辿るうちに、彼らがいかに体面にこだわっていたかを思い知った。体面を失することは、武士として生きていくうえで、致命的なことだったのである。

しかしその体面は、自分自身の努力だけでは如何ともしがたいものがある。体面を保とうともだえ苦しむ武士たちの姿の中に、鴎外は人間の悲しさを見たのではないか。

鴎外が生きた明治の日本も、この体面がまだ大きくものをいう時代だった。日本は近代国家になったとはいえ、人々は封建時代の遺制に縛られながら生きていたのである。なるほど封建的な幕藩体制はなくなったが、それに代わって天皇制が前近代的な忠誠の対象となっていた。個人は自立した近代人というには余りにも情けなく、周囲の目を絶えず意識しながら、体面にこだわった生き方をすることにおいては、徳川時代とそうかけ離れてはいなかった。

鴎外は軍隊という組織に生きることで、自分もやはり体面にこだわった生き方をしていることにおいては、阿部一族の場合とあまり異ならないと反省したのではないか。鴎外は組織人としては、出世する才能には恵まれていたほうだと思うが、それでも軍人社会を支配する封建的な人間関係にうんざりしていた節がある。

鴎外はこの小説を通じて、封建社会における個人の生き方を追求しながら、そこに権威と個人を巡るある緊張関係を、自分の体験にことよせながら、抉り出してみたかったのかもしれない。


    


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