日本語と日本文化


佐橋甚五郎:鴎外、男の意地を描く


「興津弥五右衛門の遺書」と「阿部一族」を書き上げた森鴎外は、続いて「佐橋甚五郎」を書いた。その上で、この三作を一本にまとめ、「意地」という表題を付して出版した。当初「軼事篇」という表題を考えていたが、書店のアドバイスを容れて改めたのだという。三作の内容を的確に言い当てていると自身考えたのであろう。

前二作においては、「殉死」を巡って男の意地や体面を追及した鴎外だったが、ここではずばり男の意地そのものを取り上げている。そんなに長い作品ではないが、記述は濃密を極め、読むものをして緊張せしめるほどである。

舞台は徳川家康が生きていた頃。家督を譲って駿府に引退していた家康のもとを、朝鮮からの使節団が拝謁に来った。家康は翠色の装束をしてうやうやしく使節の一行を迎えたが、面前に控えた三人の特使のうちに一人、顔を見知っていたものがあった。かつて自分の家来だった佐橋甚五郎である。使節団が退出すると、家康は側近に次のように言葉をかけ、俄かに警戒の色を見せた。

「誰も覚えてはをらぬか。わしは六十六になるが、まだめったに目くらがしは食はぬ。あれは天正十一年に浜松を逐電した時二十三歳であったから、今年は四十七になってをる。太い奴、好うも朝鮮人になりすましをった。あれは佐橋甚五郎じゃぞ。」

佐橋甚五郎は、家康の嫡男信康の小姓を勤めていたものであった。ある刃傷沙汰がもとで逐電していたところを、当時武田と戦っていた家康が、小山城に陣取っていた武田方の武将甘利の首を取ってくれば許してやろうといったので、それを信じて、偽って甘利の懐に入り込み、その首を取って家康にさしだした。家康は表向きは褒美をとらして家臣に戻してやったが、目見えの際甘利のことについては全く触れようとしなかった。それのみか甚五郎を警戒して、陰でつぎのようにいうのだった。

「あれは手放しては使ひたう無い。此頃味方に付いた甲州方の者に聞けば、甘利はあれを我が子のやうに可愛がってをったげな。それにむごい奴が寝首を掻きをった。」

甚五郎はこの言葉を聞くと、「ふん」といって逐電してしまったのである。身には生活するための費用として、多数の金貨をまとっていった。

その甚五郎が、約二十年の後、朝鮮使節団の中にまぎれて家康のところにやってきた。甚五郎は何も言葉は発しなかったが、驚いた家康の表情をみて、満足しただろう。鴎外はそこまでは詳しく書いていないが、行間からして甚五郎の意趣返しの意図が読み取れるように細工している。

鴎外はこの短編小説を書くにあたって、前二作のときと同様、典拠となる書物にあたってはいるが、しかし前二作に比べると、鴎外自身の創造になるところが多いとされる。鴎外は自分の創造をもって、この小説に何を盛り込もうとしたのだろうか。

鴎外はこの小説の構成を大きく四つの部分に分けて展開している。朝鮮使節団が家康に面会する最初の場面、甚五郎が小姓の仲間を殺害して逐電する第二の場面、甚五郎が家康との約束を果たすために甘利を殺害する第三の場面、そして甚五郎が家康の自分を責める言葉を聞いて家康と訣別する最後の場面である。現在の出来事から、その伏線となる過去の出来事へと遡るフラッシュバックの手法を用いており、あたかも映画を見るようである。

第二の場面において、甚五郎が小姓仲間蜂谷を殺害したのにはそれなりのわけがあった。或る時鷺が沼のはるか向こうに飛び降りているのを見て、あれが撃てるものがあるだろうかと誰かが言った。甚五郎は自分なら撃てると独り言をいったのに対して、仲間の蜂谷は無理だと逆らった。甚五郎は若し自分が撃てたなら、蜂谷の身に着けているものを貰い受けるとの賭けをして、鷺を撃ち殺した。甚五郎は蜂谷に対して約束どおり、蜂谷の身につけているもののうち、腰に挿している大小を貰いたいと申し出たが、蜂谷は言を左右にして約束を守ろうとはしなかった。そこで甚五郎は蜂谷を殺害した上で約束の品である大小を奪い、そのかわりに自分の大小を残して逐電したのだった。

鴎外が用いた資料には、この事件は甚五郎の欲心のためには手段を選ばぬ破廉恥な行為と非難してあった。鴎外はそれを、甚五郎は蜂谷との間で交わした約束、つまり契約を履行させるためにこの行為に及んだのだと解釈しなおしたのである。

第三の場面で展開される甘利殺害の描写は、まことに淡々としたものである。甘利は篭城の合間に望月を眺めながら宴を催し、甚五郎に心をゆるして甚五郎の膝を枕に居眠りをする。その油断に付け入って甚五郎は甘利を殺す。その描写するところは、あたかも一遍の詩を読むが如くである。

甚五郎が甘利の恩愛を受けながらも、無慈悲に殺したのは、家康との約束を果たすためであった。甚五郎はあくまでも家康との契約を果たすために、私情を殺したのだ、そう鴎外は書く。

ところが、第四の場面に至って、甚五郎は家康から思わぬ裏切りを蒙る。裏切りというのは、甚五郎が身命を賭してなした行為に対し、家康がそれに相当すべき返礼をしなかったことをさす。あまつさえ、家康は甚五郎を警戒してそれを遠ざけようともした。

甚五郎は、この家康の豹変振りに接して、家康に対する忠義の心を放擲し、訣別を決意するのである。

こう読み進んでくると、鴎外がその淡々とした筆使いのうちに、真に言いたかったことが浮かび上がってくるようである。

鴎外は甚五郎の逐電の経緯を詳しくたどることによって、それが単なる物取り目的の卑劣な行為であるとした資料の記述を反駁し、実は甚五郎は、戦国間もない世に悲観として生きながら、己の能力に深い信頼を置き、その能力を以て正直に生きたいと願った、そう鴎外は主張したのである。

一方家康については、甚五郎を警戒しつつも、その能力を自己の目的のために役立てることを忘れない老獪な人間として描いている。甚五郎が自分の言いつけを果たしたことについては、それなりの恩賞を与えているが、それを超えた人間的な触れ合いは拒絶している。つまり家康にとって、甚五郎は単なる手足に過ぎない。

家康は、甚五郎を責めるのに、「甘利はあれを我が子のやうに可愛がってをったげな。それにむごい奴が寝首を掻きをった。」という言葉を吐く。それは一見、人間的な感情に訴えることで、甚五郎の非人間性を非難しているようにも写る。しかいそれを命じたのは他ならぬ家康だったのである。

鴎外が甚五郎と家康を対比させることで浮かび上がらせようとしたのは、この両者の間に横たわる考えの相違あるいは断絶であった。甚五郎は、自分の能力を以て家康から命じられたことを果たした、彼はそのことに対して正統な評価を求めた。これに対して家康のほうは、甚五郎の能力を認めつつも、そこに不気味なものを感じた。家康が甚五郎に対して求めたのは臣従の儀礼である。ところが甚五郎はそれを超えて自己の存在を主張するところがある。そこが家康には危険に写った。

そこには家康の支配者としての驕りがあった。それに対して甚五郎には、ひとりの人間としての誇りがあった。

長い戦国時代が終って、世の中が泰平になっていくのに従い、かつて個人の力を頼りに生きてきた武士たちのあり方は、次第に権力によって絡めとられるようになっていった。家康はそうした権力者の象徴だった。それに対して、甚五郎が主張したものは、戦国時代をまだそう去りやらぬ時代に生きた個人としての武士の意地であった。甚五郎は己の意地を通すために、約束を果たさぬ同輩を殺し、家康を見限って朝鮮に去り、二十年の後家康に対して意趣返しに及んだのだ。

鴎外は甚五郎のうちに、封建的な呪縛に逆らって生きようとする人間を見たのだろう。鴎外の時代にも、封建的な人間関系は消滅しておらず、さまざまな組織をつうじて、日常を律するべき規範となっていた。鴎外の生きた軍隊の組織にあっても、個我というものは尊重されず、組織に埋没して生きることが美徳とされた。そこに生きる人間は、周囲に気を使い、上司にへつらい、出世することだけを生きがいにしていた。そんなところには、甚五郎のような自主独立の人間は育たない。

甚五郎は封建体制が確立する以前の人間であった。しかし、あるいはそれ故にこそ、今日に生きる自分たち現代人以上に、自分の能力に自身を持ち、それを恃んで自主独立を貫く男であった。そこに鴎外は甚五郎の、人間としてあるべき姿にこだわる高貴な姿勢を感じたのではないか。


    


前へHOME日本文学覚書森鴎外次へ

  
.

検     索
コ ン テ ン ツ
日本神話
日本の昔話
説話・語り物の世界
民衆芸能
浄瑠璃の世界
能楽の世界
古典を読む
日本民俗史
日本語を語る1
日本語を語る2
日本文学覚書
HOME

リ  ン  ク
ブログ本館
万葉集を読む
漢詩と中国文化
陶淵明の世界
英詩と英文学
ブレイク詩集
マザーグースの歌
フランス文学と詩
知の快楽
東京を描く
水彩画
あひるの絵本






作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2008
このサイトは作者のブログ「壺齋閑話」の一部をホームページ向けに編集したものである