日本語と日本文化


旧国名考 畿内編


明治維新まで、日本の国土を地域的に区分する名称として、国の名(旧国名)が用いられてきた。大和とか武蔵とかいったものである。これらの名称は長い歴史的伝統を有しており、その成立は飛鳥時代以前に遡る。したがって名前の由来には、日本語の古い形を残したものが多い。また政治的な背景をも感じさせる。

旧国名が日本の歴史の中で決定的な位置づけを獲得するのは、大化の改新以降であると考えられる。天智天皇は国郡性を導入して、全国を国とその下の郡の単位に区画することで、日本の国土はいずれかの国に区分けされることになった。大宝元年(701)大宝律令が制定されて、律令政治が確立されると、各国には国司が置かれ、国は基礎的な行政単位として整理された。

和銅六年(713)新たな詔勅が出され、すべての国名は漢字二文字で表すこととされた。これによって今日に至る旧国名の基本的な輪郭が定まったといえる。

ここではそれらの国名の由来あるいは語源について、伝統的な地域区分でもある五畿七道に即して考えてみたい。あくまで筆者の個人的な考察である。まず畿内から。

畿内は五畿とも称されるように、大和、山城、河内、和泉、摂津の五カ国をさす。朝廷のある大和を中心にして、それを直接とりまく国々を含む。

大和 「ヤマト」は山門とも書く。山の「と」つまり入り口というのが原義である。これには宗教的、政治的の二重の意味合いがある。

古代日本人にとって、山は特別の存在だった。それは天界と地上を結ぶ結節点であり、神々が地上に降りる際にまず立ち寄る場所であるとともに、そこから天上へと帰っていく場所でもあった。つまり大規模なヨリシロと考えてよい。

大和の国は日本の諸国の中でも、特別な位置づけをもっていた。そこは代々の朝廷があった場所であり、国の政治の中心と意識されていた。そのような場所に、「ヤマト」という名が当てられたのには、上に述べたような事情が働いていたに違いない、国の中心はそのまま、天上とのつながりを持っていると意識されたから、古代の人々はそれを「ヤマト」と名づけて、特別な意味合いを与えたのであろう。

「やまと」は漢字で「倭」と書かれていた。これは中国側が日本を呼ぶ名称をそのまま自分たちのものとして採用したためである。だが後に、野蛮人を意味する「倭」という文字を忌避して「和」と書くようになった。「和」と「倭」は音が同じで、しかも意味する内容が日本人に親しみやすかったからである。これにさらに「大」をかぶせて「大和」と書くようになった。

山城 山城は山背とも書く。山の「シロ」つまり裏側という意味である。大和から見て北側にあることから、後ろあるいは裏と意識されたのだろう。

河内 河内は「かはち」といい、川の内側あるいは川のあるところを意味していた。川とは大和川をさす。大和川は奈良盆地を西に流れ大阪湾に注ぐ川であるが、古来特別な意味をもっていたと考えられる。単なる川ではなく、山と一対のものとしての川、大和の対立軸としての大和川は、神聖な川であった。そうした古代人の感情は、人麻呂の長歌などにも表れている。

河内は大和の国への道筋にある国であり、そこには神聖な大和川が流れている。そのことから人々はそこを、河内と呼んだのである。

和泉 和泉は「いづみ」つまり泉のことを指す。古来和泉地方は農耕に適したところであったが、それはこの地域に多く存在する泉とその水を集めた灌漑池が多数あったことに支えられていた。そこからこの地方を「いづみ」と呼ぶようになったのであろう。

摂津 摂津はもと「つのくに」と呼ばれていた。「つ」とは港をいう。つまり大和の国の海の玄関口と意識されていたのであろう。その「つのくに」が「摂津」と呼ばれるようになったのは、和銅六年以来のことである。

以上が畿内五カ国の名とその由来である。大和を中心にして、それとの関係において、それぞれの国の名がつけられているように、伺われる。


    

  
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