日本語と日本文化


心中天網島:近松門左衛門の人形浄瑠璃


近松門左衛門は、世話浄瑠璃のなかでも、心中ものを多く手がけた。題名に心中がつくものだけでも、曽根崎心中を書いて以後、「心中二枚絵草紙」、「心中重井筒」、「心中万年草」、「心中刃は氷の朔日」、「今宮心中」、「生玉心中」、「心中宵庚申」と続く。その中で最後にして、最も完成度の高い作品が「心中天網島」である。

近松がこんなにも多くの心中ものを手がけた背景には、元禄以後、宝永、正徳と続く時代(1704−1715)、心中が伝染病のように流行ったという事情がある。そのため幕府は、享保八年(1,723)、心中ものの上演を禁止したほどだった。芝居が男女の心中をそそのかしているという理由からである。近松が「心中天網島」を書いたのは、そのちょっと前、享保五年のことだった。

心中ものは、近松が得意とした義理と人情のもつれあいというテーマにもっとも合致しやすい分野だったといえる。愛し合う男女が、世間のしがらみに縛られて、人間自然の感情といえる愛を貫くことができない、かれらが愛を貫こうとすれば、勢い死を選ばねばならない。心中という事態が、義理と人情のもつれ合いを、最後に解決してくれる手段だったわけなのである。

なぜそうなるかは、人間というものを歴史の展望の中で眺める視点がなければ、理解できることではない。現代人は、近松の時代の人間と同じようには、心中などできないものなのだ。

近松は、曽根崎心中をはじめとして、現実に起きた事件を下敷きに浄瑠璃を書いた。心中天網島も例外ではない。この作品は、曽根崎新地の女郎小春と、難波のしがない商売人紙屋治兵衛とが、網島の大長寺で起こした心中沙汰を下敷きにしている。これに治兵衛の女房おさんが絡むことで、男女の間柄は三角関係の相貌を呈するわけであるが、近松はそれを単純な三角関係には終わらせず、そこに女同士の義理という、珍しいテーマを持ち込んだわけなのだ。

この心中事件が実際に、三角関係を背後に持っていたかどうかは、よくわからない。近松の作品では、頼りない男である治兵衛を囲んで、女房のおさんと女郎の小春とが、複雑な因縁に陥る。その女の因縁が、この心中に怪しくも艶やかな色彩を付与するのである。

芝居の構成は、近松のほかの世話物と同様に、上中下の三段からなる。

上段は、治兵衛が小春から別れを持ちかけられる場面だ。中段では、小春の決意が本心からのものではなく、女房おさんの切ない気持ちを汲んだ自己犠牲であることがあかされる、そんな小春を、おさんは救わずにはいられないという気持ちになる、だが小春を救ったからといって、その先をどうしたらいいか、おさんも治兵衛も見当がつかないのだ。

下段では、以上を踏まえ、小春と治兵衛が心中を決意し、死に場所を求めて網島まで一里の道のりをさ迷い歩く、ここで近松は下段を前後に分け、後半を純粋な道行の場面にあてている。

だが何故ここで小春と治兵衛が心中を決意するように至るのか、その必然的な動機は、作品からはよくはわからない、もともと心中というものは、理屈などではわからない部分を多く含んだものなのだ。

この時点までに、おさんは父親によって無理やり治兵衛から引き離されている。現代人の感覚から言えば、男は妻と離婚するというかたちで三角関係の清算を迫られたともいえる。だからといって、もう一人の女と晴れて再婚かというと、そうもいかない。そこには、近松の時代と現代社会との間で、モラルの断絶がある。

それまでは二人の女の間を揺れ動く優柔不断な優男でしかなかった治兵衛が、心中を決意することで、すっかり生まれかわる。そしてその生まれ変わった治兵衛が、決然とした態度で小春を導き、死に場所と定めたところで、女の首を匕首で刺し殺し、自分も首をくくって死ぬわけなのである。

曽根崎心中の三段目は、道行文として天下の名文であったが、この作品の道行の場面も、それに劣らず艶やかな名文だ。

人形浄瑠璃の舞台では、小春は手ぬぐいを頬かむりして、いかにも世を忍ぶといった様子をしている。その姿がぞっとするほど美しい。女も男も、人形であることを観客に忘れさせるほど、芝居は真に迫った力で、観客を感動させる。

近松は、この道行をもっとも完成度の高いものにしたくて、まずその場面をまぶたの裏に描き、そこから手前に還元していくような形で、芝居を構成したのではないか、そんな風にも思われるのだ。


    

  
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