日本語と日本文化


心中天網島上段:近松門左衛門の世話浄瑠璃


「心中天網島」は、近松門左衛門の代表作というにふさわしく、結構にも油断がない。構成上はほかの世話物と同じく、基本的には三段形式をとっている。

上の段では、お春治兵衛という若い男女が、何故心中を選ばねばならなかったか、その伏線が述べられる。中段では、二人が心中に向かって突き進まざるを得なくなった、その必然性が改めて展開され、下段では、心中の場面が展開される。それも道行の段を特別に独立させたうえで、美しくもあでやかな男女の心中が語られるといった具合である。

さて、治兵衛には、おさんという女房と二人の子供がある。おさんは生まれの上では治兵衛の従妹であり、夫婦の身代も彼女の親からもらったものだ。そこを夫の治兵衛が浮気心を起こし、遊里の女小春に入れ込むようになる。この治兵衛の浮気心が女たちや周囲の人間たちを巻き込んで、最後には心中話に発展するのだ。

いってみれば、バカな人間のバカげた次第を、観客は見せられるわけだ。だがそのバカさ加減のなかにも、ちょっぴり人間の真実がある、近松はこう言いたかったかのようなのだ。

浄瑠璃の詠い出しは、次のような謎めいた文句だ。

歌「さん上ばつからふんごろのつころ、ちよつころふんごろで、まてとつころわつからゆつくる/\/\、たがかさをわんがらんがらす。そらがくんぐる/\も、れんげれんげればつからふんごろ」

遊里の騒ぎ歌というものだそうだが、何の意味か現代人の我々にはさっぱりわからない。専門家の考証によれば、「三条橋の上で待て」という文句が隠されているというが、そんなことを詮索しなくとも、女主人公が遊女だということを、肌で感じられればそれで良い。

ここで早速、敵役の太兵衛がでてきて、啖呵を切る。太兵衛はこの浄瑠璃の中では、小春と治兵衛の相思相愛の間柄の中に割り込んで横恋慕をするただの間抜けな悪党という役柄だ。

詞「聞共なく共小判の響で聞せて見せふ。貴樣もよい因果じや。天滿大坂三郷に男も多いに、紙屋の治兵衞二人の子の親、女房は從弟同士舅は伯母聟。六十日/\に問屋の仕切にさへ追るる商賣、十貫目近い金出して請出すの根引のとは、蟷螂が斧で御座る。我ら女房子なければ、舅なし親もなし伯父持ず、身すがらの太兵衞と名をとつた男。色ざとで潛上いふ事は治兵衞めには叶はね共、金持た計は太兵衞が勝た。金の力で押たらば、なふ連衆、何に勝ふも知れまい。今宵の客も治兵衞奴じや。もらを/\、此身すがらがもらふた。花車酒出しや/\」

太兵衛は小春に向かって、色男の治兵衛より自分の方がよほど甲斐性があると自慢する。小春はその太兵衛に自分を身請けさせようと、いったんは決意するが、それは死を覚悟の上だ。小春は治兵衛の女房のおさんから、どうか治兵衛をあきらめてくれと懇願され、女同士の意地から治兵衛をあきらめようとしているのだ。

治兵衛と添いつづけても、いずれは心中する運命にある命だ、それならばおさんと治兵衛の命を助けて、自分だけ死んでもよい、小春はそう考えている。

そこへ治兵衛の兄孫兵衛が、侍に変装して小春を訪ねる。治兵衛との関係を確認しにやってきたわけだ。だが女と会って話を聞いてみると、小春は治兵衛と心中するのはまっぴらだと、思いがけないことをいう。

近くで治兵衛が盗み聞きしているのを、小春は見透かしてそういうのだ。

詞「なふ小春殿、宵からの素振詞の端に氣を付れば、花車が咄しの紙治とやらと心中する心と見た、違ふまい。死神付た耳へは、異見も道理も入るまじとは思へ共、去とは愚痴のいたり。先の男の無分別は恨ず、一家一門そなたを恨み憎しみ、萬人に死顏晒す身の恥。親は無かも知らね共、若しあれば不孝の罰、佛は愚地獄へも暖かに、二人連では堕られぬ。痛はし共笑止共、一見ながら武士の役、見殺しには成がたし、定て金づく、五兩十兩は用に立ても助けたし。しん八幡侍冥利他言せまじ、心底殘さず打あけや」

詞「私一人を頼みの母樣、南邊に賃仕事して裏家住。
地「死んだ跡では袖乞非人の飢死もなされふか、と是のみ悲さ。私とても命は一つ、
詞「水臭い女と思召も恥かしながら、其恥を捨て死ともないが第一。
地色「死なずに事の濟む樣にどふぞ/\頼みやす、語れば頷く思案皃。外にははつと聞驚く、思ひがけなき男心、木から落たる如くにて氣もせき狂ひ、扨は皆嘘か。
詞「エヽ腹の立。
地色「二年といふ物化された。根生腐りの狐め踏込で一討か、面恥かかせて腹ゐよかと、歯切きり/\口惜涙。」

障子の影で小春らの様子を伺っていた治兵衛は、この言葉に逆上して、障子越しに小刀で切りかかる。だが逆に孫兵衛によって、両手を縛られ、障子の柱にくくりつけられてしまう。

詞「心もせきに關の孫六一尺七寸拔放し、格子の挾間より小春が脇腹、爰ぞと見極め、ゑいと突に座は遠く、是はと計怪我もなく、すかさず客が飛かかり、兩手を掴んでぐつと引入、刀の下緒手ばしかく、格子の柱にがんじがらみ、しつかと締付、小春騒ぐな覗くまいぞと、いふ所に亭主夫婦立歸り、是はと騒けば、アヽ苦うない。
詞「障子越に拔身を突込暴れ者、腕を障子に括り置く。思案あり繩解な。
地色「人立あれば所の騒ぎ。サア皆奥へ。小春おじや往で寐よふ」

逆上して小春との関係を断つと宣言した治兵衛は、互いに交わした起請文を差し出せと小春に迫る。その起請文の中には、おさんから小春にあてた文も含まれていたのである。

詞「ヤイ狸め狐め屋尻切め、
地色「思ひ切た證據是見よと、肌に懸たる守袋、
詞「月頭に一枚づつ取交したる起請合せて廿九枚、戻せば戀も情もない。こりや請取とはたと打付、兄者人、彼奴が方の我等が起請數改め請取て、此方の方で火にくべて下され。サア兄きへ渡せ」
地色「「心へやしたと涙ながら、投出す守袋孫右衞門押開き、ひいふうみいよ十廿九枚數揃ふ。外に一通女の文。是や何じや語り開く所を、アヽそりや見せられぬ大事の文と、取付を押退け、行燈にて上書見れば、小春樣參る、紙屋内さんより讀も果ずさあらぬ顏にて懷中し、
詞「是小春、最前は侍冥利今は粉やの孫右衞門商ひ冥利、女房限つて此文見せず、我一人披見して、起請共に火に入る。誓文に違はない」
地「アヽ忝い。夫で私が立ます」

おさんの書いた文には無論、小春が孫兵衛をあきらめてくれるよう、懇願する内容が書かれている。

こうして、上段においては、登場人物がすべてそろい(または暗示され)、これから進んでいくであろう物語の必然性のようなものが、先取りされて示されるのだ。


    

  
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