日本語と日本文化


二つの戦後・ドイツと日本


ドイツと日本は、ともに第二次世界大戦の敗戦国として壊滅的な打撃を蒙りながら奇跡と言われるような復興を成し遂げてきた。その復興の過程には共通する面も多いが、相違する点も多い。ともあれその結果としての、両国の今日の世界における立ち位置を比べてみると、かなりな違いが認められる。その違いとはどんなもので、どんな要因によってそうなったのか。国際政治学者大嶽秀夫氏の著作「二つの戦後・ドイツと日本」は、そんな疑問に答えようとして書かれたものである。

今日の国際政治におけるドイツの立ち位置をごく単純化していえば、EUの一員として、西欧諸国との間で強い絆を作り上げ、経済的にも安全保障の面でも、西欧諸国と深い信頼関係を結んでいるということだ。これに対して日本はどうかと言うと、アメリカ一辺倒の政策を追求し続け、その結果東アジアで孤立を深め、「友人を持たない」状況に自らを置いている。最近の尖閣問題や北朝鮮の核の脅威に関して、安倍首相がテレビインタビューの中で、「アメリカの若者が命をかけて我国を守ってくれる」などと発言していたのを見るにつけても、日本の置かれている状況が如何に異常なものであるかを、思い知るのである。

何故こうなってしまったか。大嶽氏は戦後両国が直面したスタートラインから始め、占領政策の特徴や独立の過程、そして世界秩序へのかかわり方など、主要な側面に焦点を当てて、両国の復興過程の特徴を浮かび上がらせている。ここではそのいくつかの点について、お浚いしておきたい。

まず、占領政策について。日本が事実上アメリカによる単独占領の形を取ったのに対して、ドイツは米英仏ソ4か国による分割占領となった。このうち、仏ソ両国は、ドイツによって多大な損害を被ったという事情もあり、ドイツに対して報復主義的な態度を示した。ソ連が、ドイツ東部や東プロイセンなどのドイツ領土の一部を占領し、そこに住んでいたドイツ人を追放したのは、その象徴的な出来事である。フランスはフランスで、ドイツが戦前と同じような形で復興することを嫌い、ドイツをいくつかの小国に分割することを主張したほか、ルールの工業地帯をフランスの権力のもとに組み込もうとする姿勢を示した。

こうしたことが積み重なり、また冷戦の影響もあって、ドイツは東西に分断され、近隣諸国の意向を常に気にせざるをえないような立場に置かれた。これに対して日本は、領土の一部をソ連に侵略されたとはいえ、戦前の国土をほとんど維持することが出来、国際政治の上ではアメリカの意向だけを気にしていればよかった。仮にスターリンの希望通り北海道の北半分がソ連によって占領されていたら、果して今日どんなことになっていたか、考えるだけでも憂鬱である。

二点目は占領下の統治のあり方である。日本では統治の主体はあくまでも日本政府であったという点で間接統治のあり方を採用したのに対して、ドイツでは各占領国による直接統治の形をとった。その過程で、日本では戦前の軍国体制の指導者が早々に復活したのに対して、ドイツではいわゆる非ナチ化が徹底的になされた。しかもそれを推進したのはほかならぬドイツ人自身だった。これによってドイツ人は、ナチスの負の遺産を自らの手によって清算しようとする姿勢を見せたのである。日本の方は、その点過去の反省と言うことが不徹底に終わった。

三点目は憲法制定過程である。日本では周知のとおり戦後比較的早くから憲法改正の議論が始まり、敗戦の翌年には新憲法が交付された。このことの背景には天皇制の問題があった。マッカーサーは様々な理由から天皇制の維持を目指したが、それを成功させるためには、なるべく早く日本人に改正憲法を作らせ、そのなかで天皇制の維持を表明させておいたほうが良いと考えた。何故なら、占領国の中には、天皇制をつよく批判しているものもいれば、天皇本人の政治責任を追及しようとする動きもあった。そうした動きをけん制するためにも、早く日本人に憲法改正をさせて、戦争の放棄と引き換えにする形で天皇制の維持を認めさせるしかない。したがって、天皇制の護持と戦争の放棄は一体のものだったというのである。

ドイツで新憲法が制定されたのは1949年である。遅れた原因の最大のものは、分割占領ということにあった。ドイツ人の多くは占領地区全体を併せた統一ドイツの復活を考えていて、それを前提にした新憲法の制定を考えていたから、1949年の憲法制定は、東側との分断という苦渋の選択を意味した。

そこで両国の憲法を比較してみると、著しい対称性が認められると著者はいう。まず、制定の主体であるが、日本については所謂「押し付け憲法」と言う言葉があるくらい、占領者たるアメリカ側の意向が強く反映していた。それが、平和主義、民主主義、基本的人権という三本柱になったわけである。これに対してドイツの場合には、ドイツ人自身が主体的に憲法制定をおこなった。ドイツの場合にはワイマール憲法と言うものを歴史的な遺産として持っていたので、いわゆる近代憲法の精神にのっとった憲法を制定する意思と能力はもっていたわけである。しかしてこの新憲法にドイツ人自身が盛り込んだ理念は、自由主義的なものであり、日本の新憲法の持つ社会民主主義的な色彩とは著しい対照をなしていた。その背景には、冷戦の厳しい現実があり、また東側において社会主義的な理念が喧伝されていることへの対抗心もあったと受け取れる。

そこで、著者は両国の占領当局の指導理念の経緯ともいうべきものに言及している。占領の初期にあっては、ファシズムや軍国主義への反省から、一つには自由主義的民主主義の徹底が目指されたいっぽう、ルーズベルトのニューディール政策の延長としての社会民主主義的な考え方が有力であった。日本の占領の初期にGHQを指導していたのは、ニューデーラーたちをはじめとした社会民主主義者だったのであり、彼らの思想が日本国憲法に色濃く反映されることになった。だが冷戦がはじまると、社会民主主義は後方に退き、かわって、東側への対抗軸として、自由主義的考え方が有力になってきた。ドイツの新憲法はこうした流れの変化を反映しているというのである。

四点目は独立の過程である。日本の独立は1952年4月、サンフランシスコ講和条約の発効によって成立した。ソ連や中国を除外した片面講和であった。しかも日米安保と一体のものであった。そのことは日本がアメリカに政治的にも軍事的にも従属していく道を選択したものだったといってよい。この時の選択がいまだに日本の政治を呪縛し、国の安全保障をめぐって一国の総理大臣が上述のような発言をする事態にまでつながっているわけである。

これに対してドイツの独立は1955年5月、講和条約の発効によって成立した。これも日本と同様西側諸国との片面講和であった。しかし日本と異なり、その西側諸国、とくにフランスとの調整に甚大なエネルギーを要した。フランスはドイツが強国として復興することに疑念と恐怖を抱いていたからである。したがって講和条約を成立させるためには、フランスの疑念を取り除く必要があった。そのためにドイツは多大な努力をした。ただ単にドイツ国家として復興するのではなく、西欧の一員として復興するという約束を、信じてもらう努力をしたわけである。その努力が、西欧諸国との経済関係の進化としての欧州石炭・鉄鋼共同体の設立、また軍事的緊密化の象徴してのNATOへの参加につながった。ドイツは西欧の一員でありつづける、という強い意志を発信し続けることによって、フランスなど近隣諸国の理解を獲得し、西欧の一員としてこれまで発展してきたわけである。このことはアメリカ一辺倒の余り、アジアの近隣諸国との間での関係改善の努力をかならずしも図ってこなかった日本との大きな違いである。

五点目は再軍備のプロセスである。日本の再軍備が、朝鮮戦争を背景にして、アメリカ側から要請された結果であったことは良く知られている。当時の首相吉田茂には、日本自ら積極的に再軍備する意思はなかった。それ故アメリカからの再軍備要請に対しては最低限度で応じるとする姿勢をとった。吉田の思いとしては、いまは再軍備に堪えられる状況ではない、アメリカの軍事力の傘のもとで、経済復興に全力を傾けるのが肝要だ、そう考えていたわけである。

これに対してドイツは、再軍備をNATOの一員としての責任を果たすという名目で、積極的に取り組んだ。その結果ドイツ人は正規軍を復活させただけでなく、国民への徴兵まで憲法の中で位置づけた。戦争は無論徴兵などタブー中のタブーになっている日本とは大きな違いである。それも、ドイツがあくまでも西欧の一員なのだとするスタンスからの自然な帰結なのである。

以上のことがあって、ドイツと日本とでは、かなり異なった道を歩んできた、ということの背景がわかろうというものである。それを単純化していえば、ドイツは近隣諸国との融和と協調に立ったヨーロッパの一員としての道を選び、日本はアメリカ一辺倒のアジアの孤児としての道を選んだ、ということになるのだろう。




  
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