日本語と日本文化


豊下楢彦「安保条約の成立」~吉田外交と天皇外交


現行の日米安保条約は、まがりなりにも平等な二国間の対等な軍事同盟という体裁をとっている。これが締結されたのは1960年のことだが、それは1952年に締結されていた日米安保条約(旧安保条約)を改定する形で行われたものだ。改定の際の名目は、それまで片務的だった条約の精神を、双務的なものに改めようというものだった。旧安保条約は、誰が条文を読んでも、平等な二国間の関係とはとてもいえないほど、不平等であり、日本の側から見れば屈辱的な内容のものだったわけである。では何故日本側は、そんな屈辱的な条約を結ぶに至ったのか。その謎について、国際政治学者の豊下楢彦氏が綿密な考察を加えている。(豊下楢彦「安保条約の成立」~吉田外交と天皇外交、岩波新書)

まず、旧条約のどんなところに問題があるのか。前文と本文5条からなるこの条約が定めていることを簡単に整理していうと、①日本は講和条約成立後も引き続きアメリカ軍隊の日本駐留を希望する、②アメリカは日本の申し出を受諾し、日本国内に米軍基地を存続させる、③日本が外部から攻撃を受けた時(外国勢力にそそのかされた国内の勢力が内乱を起こした場合を含む)には、アメリカはこの軍隊を使用することができる。しかし、そのことはアメリカが日本防衛について責任を有することを意味しない、というものである。ありていにいえば、アメリカは日本国内に自由に基地を配備できる権利を取得する一方、日本の防衛には責任を負わないという内容だ。なんのことはない、日米安全保障条約といっていながら、その実、日本側からする、ただの基地提供条約に過ぎないわけである。

何故こんな内容の条約を、日本は結んでしまったのか。氏は、条約の交渉にあたった吉田茂首相の動きを負いながら、その謎に迫ろうとする。

まず、吉田や外務省の幹部たちが、講和後の日本の安全保障について、そもそもどのように考えていたか。氏は、当時条約局長として安保条約を巡る対米交渉の一線に立っていた条約局長西村熊雄の次のような言葉を、この本の冒頭で紹介している。

「日本の用意した条約案は、日本の平和と安全を守ることはとりもなおさず太平洋地域およびアメリカの平和と安全を守ることであるから、日本が武力攻撃を受けた場合にはアメリカは日本を防衛し日本はこれに可能な協力をする、すなわち、両国は集団自衛の関係に立つことを規定し、両国がこのような関係にあるから日本は合衆国軍隊の日本に駐留することに同意するという趣旨を根幹とするものであった。あくまで国連憲章の枠内での結びつきを考えたものである」

ここで述べられているのは、①日米安保を二国間だけの関係にとどめるのではなく、国連との関係において位置付けること、②アメリカが日本を防衛するのはアメリカの平和と安全を守ることにつながるのであるから、両国は集団的自衛の関係にたつこと、③したがって、アメリカからの軍隊駐留の申し出に対して日本は同意し、かつ可能な限りの協力をすること、などであった。

吉田らがこうした立場をとっていたことの背景には、当時の国際情勢についての冷めた見方があったと氏は言う。冷戦が現実化し、また朝鮮戦争が勃発したことによって、アメリカにとって日本がもつ戦略上の位置づけはこのうえなく高まった。日本は反共の防波堤としての役割に加え、最前線の基地としての役割も期待されるようになった。こうした事情を吉田らは冷静に分析したうえで、アメリカへの基地提供を、なるべく有利な条件ですすめることができるはずだと考えたわけである。実際、アメリカの交渉担当者たるダレスも、当初は、日本がそう簡単には基地提供には応じないだろうと考えていたのである。

ところが、当のダレスさえも驚いたように、吉田はアメリカに対する交渉カードを一切切ろうとせず、当初から、日本への軍隊の駐留を、日本側から要請するような態度をとった。その結果、日本は交渉において主導権を発揮することなく、アメリカの言い分を一方的に飲まされることになった。その挙句に、安保条約の内容は、上述したような一方的なものになってしまったというのである。

しかし何故吉田はこんな不可解な行動をとったのか。氏はそこに、昭和天皇の影をみるのである。

氏は、あくまでも仮説だと断ったうえで、安保条約をめぐる日米交渉の過程に昭和天皇が深くかかわり、吉田ら政府担当者らの意向を超越したところで影響力を発揮したというのである。その結果、日米安保条約は上述したようなものになってしまった。それは、日本にとっては一方的に不利なものともいえるが、昭和天皇にとっては必ずしもそうではなかった。日本に引き続きアメリカ軍を駐留させることは、すくなくとも天皇制を維持するという目的にはかなっている、そう天皇は判断したのだろうというのである。

昭和天皇がそう考えたことの背景には、当時の国際情勢への懸念がある。昭和天皇は国際的な共産主義運動に脅威を感じており、とりわけソ連を畏れていた。というのも、ソ連はいまだに天皇の政治責任を云々し、裁判にかけるべきだと主張していたからである。そのソ連がもし朝鮮戦争に勝ったら、日本の天皇制は重大な危機を迎えるに違いない。そのことを深刻に憂慮した天皇は、何が何でもアメリカに勝たせた上で、日本を引き続き共産主義勢力の侵略から守るためには、アメリカの力に全面的にすがる以外にない。ところが吉田らは、そのアメリカと対等に交渉しようとし、時にはダレスを怒らせてもいる。そんな吉田にもっぱら交渉を任せておくわけにはいかない。天皇はこう考えて直接身を乗り出した。氏はそう推測するのである。

昭和天皇がとったこうした行為は極めて政治的なものである。それが象徴天皇制をうたった新憲法の精神と相容れないことは明らかである。場合によっては、自らの立脚基盤を危うくしかねない行動を敢えてとったところに、この時点での昭和天皇のあせりのようなものを感じとることができるかもしれない。

ところで、日米安保については、アメリカ側から日本の「安保ただ乗り論」というものが繰り返し持ち上がってきた経緯がある。これにはそれなりの背景がある。

日米安保交渉にあたってダレスがもっとも強調したことは日本の再軍備だった。日本が再軍備して戦いの意思と能力を示してこそ、アメリカは初めて集団自衛のためのパートナーと見做すことができる。日本にとって再軍備は、アメリカとの軍事同盟を結ぶための最低の条件である。その条件を満たさない限りは、日本は集団的な自衛にとって何の貢献もできないのであり、したがってそんな日本を守る義務はアメリカにはない。ダレスはこう強調したうえで、自分では義務を果たさず、アメリカの保護を期待するのは「安保ただ乗り」だといって、日本を責めたのである。




  
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