日本語と日本文化


激動の50年代:中村政則「戦後史」


福島の原発事故をきっかけにして反原発運動が盛り上がり、首相官邸を囲んでデモが行われるなど、日本人が久しぶりに街頭に出る動きが見られた。これをとらえて、アラブの春やアメリカの「ウォールストリート占拠」運動と同じような民衆の意思表示だと見るものもいた。実際、一時期は万単位の人々がデモに加わり、大いに盛り上がりを見せたものだったが、いつとはなく尻すぼみになっていったようだ。

こんなにも大勢の人々がデモに加わるのは半世紀ぶりのことだったわけで、それだけ「原発」の問題が深刻であったことを物語っているわけだが、それは裏返せば、自分の生命や健康に直接危険を感じる程大きな問題でなければ、人々が政治化することはないということを物語っている。

日本人が非政治化したのは、1960年代以降のことだ。いわゆる高度成長が始まり、日本は経済の時代に突入した。年々拡大するパイが人々の生活水準を高め、政治的な不満を解消していった。人間というものは腹が満ちれば心も静まるもので、経済の高度成長が、日本人の政治意識をすっかり保守的にしてしまったわけである。

だが日本人にも非常に政治的だった時期がある。敗戦から1950年台にかけての15年間であり、とりわけ1950年代は激動の10年間であったといってよいほど、日本人が強く政治化した時期だった、と日本近現代史学者の中村正則氏はいう。(中村「戦後史」)

「1950年代は"政治の10年"(Political Decade)であった。年表を見ても、講和論争、破防法闘争から基地反対闘争、原水爆禁止運動、勤務評定反対運動、そして"英雄なき113日の戦い"の三井鉱山連合会(三鉱連)争議、日鉱室蘭争議など歴史的な大争議が続いた。この"政治と労働の季節"の最期を飾ったのが、警職法反対運動であり、安保・三池闘争であった」

こんなにも、日本人が政治化した理由は、敗戦後の国の形をどう作っていくかについて、日本人全体が我がこととして考え、上からのリーダーシップを無条件に受け入れないという姿勢をとったことだ。それ故、講和や安保といった高度に政治的な問題についても、自分たちの日常の生活に直結する具体的な問題としてとらえ、政府に対してデモというかたちで意思表示を行ったわけである。

この激動の50年代はだから、日本の国の体制がまがりなりにも整い、新しい時代の姿が見えて来るにしたがって、安定へと向かっていくべき運命にあった。そのことからこの時代を、過渡期としての50年代ととらえることもできる、と氏はいっている。そしてこれは日本に限らず、世界的な現象でもあったとも氏はいっているが、少なくともアメリカでは、1960年代においても政治の季節は続いた。その点で、1950年代は日本にとって特別の意味をもつ時期だったと考えることができそうである。




  
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