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法華経を読むその二十三:薬王菩薩本事品


法華経の教えを説いた本体部分は「嘱累品」第二十二で完結し、「薬王菩薩本事品」第二十三以後は、法華経の教えを実践した具体例が説かれる。これらを読むことによって、教えを頭で理解するだけでなく、体で受け止めるように意図されているわけだ。信者はこれらの具体例に、自分自身の宗教的実践の手本を見るのである。

「薬王菩薩本事品」のテーマは自己犠牲である。自己を犠牲に供することで、仏の供養をなす。その自己犠牲とは、具体的には焼身供養といわれ、自分の体を焼くことだ。焼くことで、そこから上る光を以て世の中を明るく照らす。つまり自己犠牲が世の中の導きの光となるわけである。そうした自己犠牲の精神、とりわけ身を焼くといった過激な行為は、日本はもとより中国の大乗仏教にもほとんど見られず、特異なことのように思えるが、同じ大乗仏教の国チベットでは、珍しいことではなく、近年でも、中国政府の弾圧に抗した僧侶が焼身自殺して抗議の意思を示すといった事態も起こった。焼身といえば東南アジアの小乗仏教に特有のものだと思われがちだが、大乗仏教にもあるわけだ。そのもとになるのが、法華経の「薬王菩薩本事品」なのである。

このお経は、宿王華菩薩が薬王菩薩の事跡について釈迦仏に問うことから始まる。釈迦仏が答えて曰く。無限の過去において、日月浄明徳如来の世に一切衆生喜見菩薩という菩薩があった。この菩薩は厳しい修業の結果現一心色神三昧という霊力を得た。現一心色神三昧とは、相手に応じて相応しい姿となり、相手に相応しい教えを与えることができる能力をいう。

宿王華菩薩は、「我れ現一切色身三昧を得たるは、皆是れ法華経を聞くことを得し力なり。我れ今、当に日月浄明徳仏及び法華経を供養すべし」と言って、仏を供養するのであるが、その供養の仕方というのが、自らの身に香油を塗り、それに火をつけて、我が身を焼き尽くすというものであった。その火は千二百年の間燃え続け、この世を照らし続けたのである。

しかし一切衆生喜見菩薩は、再び日月浄明徳如来の世に生れかわった。生まれかわった一切衆生喜見菩薩は、ひきつづき日月浄明徳如来を供養し続けた。やがて日月浄明徳如来が滅度することとなった。滅度に臨んで如来は言った。「善男子よ、我れ仏の法を以て汝に嘱累す。及び諸の菩薩・大弟子竝に阿耨多羅三藐三菩提の法をもなり。亦、三千大千の七宝の世界・諸の宝樹・宝臺及び給侍の諸天を以て悉く汝に付す。我が滅度の後、所有る舎利も亦、汝に付嘱す。当に流布せしめて広く供養を設くべし、応に若干の千の塔を起つべし」

こう言われた一切衆生喜見菩薩は、如来を火葬したのちその舎利を拾い集め、八万四千の甕に収めて、それを八万四千の塔をたてて収めた。ところが一切衆生喜見菩薩は、まだ供養が足りないと思った。そこで何をしたかというと、自分の両肘に火をともして、世の中を照らしたのであった。肘が火をともすこと七万二千年、ついに肘は燃え尽きてなくなってしまった。人々がそのことを悲しんでいると、一切衆生喜見菩薩は次のように言った。「我れ両つの臂を捨てて、必ず当に仏の金色の身を得べし。若し実にして虚しからずんば、我が両つの臂をして還復すること故の如くならしめん」。そう言い終わると、両肘はもとのごとくに戻ったのであった。

この話をすると、釈迦仏は宿王華菩薩に向って、この一切衆生喜見菩薩こそが薬王菩薩なのだと言った。その上で、もし発心して阿耨多羅三藐三菩提を得んと欲すれば、手足の指に火をともして仏塔を供養せよと語ったのであった。

そういう供養に値するほど、仏の教えは尊いのだ。その仏の教えを説いたものが法華経である。その法華経が最も優れた教えであることは、一切の水のうちで海が第一であるがごとく、最も大なることは、衆山のうちで須弥山が第一なるがごとく、もっとも光明なることは、衆星のうちで月天子が第一なるがごとし、といった具合に、さまざまな比喩を用いて法華経がいかに素晴らしいかを力説する。

この「薬王菩薩本事品」は、仏の教えのありがたさを説くことで、他のお経に劣るものではなく、むしろ、「若し人ありて、是の薬王菩薩本事品を聞かん者は、亦無量無辺の功徳を得ん」こと請け合いである。とくにこのお経は女人にとって功徳が大きい。お経は説く、「若し女人ありて、是の経典を聞きて、説の如く修行せば、此に於て命終して、即ち安楽世界の阿弥陀仏の、大菩薩衆の圍繞せる住処に往きて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん」。女人も法華経に帰依すれば、阿弥陀仏の浄土に生まれかわることができる、というのである。そんなことからこの「薬王菩薩本事品」は、とりわけ女人からの信仰が厚かったのである。

なお、この「薬王菩薩本事品」は、ほとんど散文からなっており、韻文たる偈の部分はないに等しい。これは、以後の部分でも指摘できる点で、本体部分との大きな違いとなっている。



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