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法華経を読むその十一:見宝塔品


「見宝塔品」第十一は、「法師品」第十に引き続き、法華経の功徳を説く。法華経は、釈迦仏の教えを説いたものであり、これを読めば釈迦仏自身から教えを受けたと同じ功徳があるとされる。だが、その釈迦仏の教えは、たんに釈迦仏その人の教えたるにとどまらない。というのも、仏は釈迦仏に先立つ永遠の昔から無数に存在し、それらの仏はみな同じ教えを説いていたからだ。つまり法華経とは、すべての仏の教えに共通する教えなのだ。そのことを強調するために、「見宝塔品」は、過去仏としての多宝如来を登場させるとともに、同時代のさまざまな仏国土を主宰する無数の仏を登場させて、釈迦仏を含むすべての仏が、同じ教え、すなわち法華経を説くさまを語るのである。

「法師品」では、薬王菩薩が釈迦仏の相手をしていたが、この「見宝塔品」では、大楽説菩薩が釈迦仏の相手をする。その二人の前に七宝で荘厳された塔が、地より湧出してあらわれる。七宝とは、金・銀・瑠璃・硨磲・瑪瑙・真珠・玫瑰をいう。硨磲は白色珊瑚、玫瑰はルビーのことらしい。なお、無量寿経では、七宝は、金、銀、瑠璃、玻璃、硨磲、珊瑚、瑪瑙とされる。玻璃は水晶のことである。

さて、その宝塔の中から大音声がして、次のように言った。「善いかな、善いかな、釈迦牟尼世尊は、能く平等の大慧、菩薩を教える法にして、仏に護念せらるるものたる妙法華経をもって、大衆のために説き給う。かくの如し、かくの如し。釈迦牟尼世尊よ、説く所の如きは、皆これ真実なり」。平等の大慧とは、衆生はみな平等に仏性をもっているとの智慧である。菩薩を教える法とは、衆生にさとりへの道を説く菩薩道のことをいう。仏に護念せらるるものとは、衆生の救済のために、その機会を待って、仏が護持している教えという意味である。この三者を兼ね備えたものが法華経であり、法華経は仏の教えそのものなのである。

宝塔の湧出に驚いた大楽説菩薩に向って釈迦仏が説明する。宝塔の中には仏の前身がいて、それを多宝如来という。多宝如来は無限の過去に活躍した如来で、あらゆる仏の先駆者である。ほかのすべての仏は、多宝如来の教えを受けて仏に成ったとされる。その多宝如来が次のように言う。「若しわれ、仏となりて、滅度せし後に、十方の国土において、法華経を説くものあらば、わが塔廟は、この経を聞かんがための故に、その前に現前して、ために証明を作し,讃めて、善いかな、善いかな、と言わん」。多宝如来は、法華経を読んでいるものの前に出現するというのだ。何故なら法華経は、多宝如来の教えであるからだ。この宝塔は、多宝如来の教えである法華経を読むところには、かならず現われるというのである。

多宝如来の出現に接した釈迦仏は、同時代に各国土に存在する無数の仏を集めて、かれらとともに多宝如来をたたえたいと思う。そこで白毫より一の光を放つと、夥しい数の仏が集まってきた。これ等十方から集まった仏たちは、宝塔の周囲に結跏趺坐して、多宝如来をたたえるのである。それに対応して、釈迦仏は座より立って、虚空の中に浮かんだ。これ以来釈迦仏は、虚空から教えを説くようになる。

多宝如来は、宝塔の中で半座をわかち、そこに釈迦仏を坐せしめた。半座をわかつとは、一つの座を二人が共有することだ。それは二人が一身一体であることを意味する。釈迦仏は多宝仏と一身一体となったのだ。そういう立場から釈迦仏は、その場に居合わせたものたちに大音声をもって告げる。「誰か能くこの娑婆国土において、広く妙法華経を説かん。今、正しくこれ時なり。如来は久しからずして、当に涅槃に入るべし。仏は、この妙法華経をもって付嘱して、在ることあらしめんと欲するなり」

自分たち、すなわち多宝仏と一体となった釈迦仏は間もなく入滅するが、その滅後にも法華経は残る。だから、人々はその法華経を、仏その者だと思って受持すべきである、というのである。

釈迦仏は偈をもって説く、
  それ、能く この教法を護るもの有らば
  則ち為(これ)、われ及び 多宝を供養するなり 
  この多宝仏の、宝塔に処して
  常に十方に遊びたもうは この経のための故なり
  亦、また 諸の来りたまえる化仏にして 
  諸の世界を荘厳し 光にて飾りたもう者をも供養するなり
  若しこの経を説かば 則ち為、われと
  多宝如来と 及び諸の化仏とを見たてまつるなり

この後、法華経を受持することの難しさが、六難九易のたとえを以て説かれる。九つの容易なこととは、法華経以外の経典を悉く説くことをはじめ、決してむつかしいとはいえないもののことである。六つの難しいこととは、仏の滅後に、悪世の中において、法華経を説くことをはじめ、法華経をめぐる困難をいう。その困難を乗りこえて、法華経を広めるように努めるものは、仏によって善しとせられ、かならず成仏することができるであろう。お経の最後には、そのことを強調する次のような偈が置かれる。
  諸の善男子よ わが滅後において
  誰か能く この経を受持し読誦するや
  今、仏の前において 自ら誓いの言を説け
  この教は持すること難し 若し暫くも持する者あらば
  われ、即ち歓喜せん 諸仏も亦、然かならん
  かくの如きの人は 諸仏の歎めたまう所なり



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