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法華経を読むその三:譬喩品


法華経「譬喩品」第三は、その題名が示唆するとおり、仏の教えを、比喩を用いて説いたものである。お経には、比喩を用いたものが多い。最古の大乗経典といわれる般若経などは、その主張するところの理由として、大部分の場合譬喩を持ち出しているほどである。理由のかわりに比喩を示されても、人間というものはわかったような気持ちになるように出来ているらしい。

法華経も又、比喩を効果的に用いて、仏の教えを説いている。「譬喩品」においては、三界の火宅の比喩が語られる。これをはじめ法華経七喩といわれるものがあって、いずれも有名である。ちなみにそれらを列挙すると、三界の火宅のほか、窮児の譬え(信解品)、薬草の譬え(薬草喩品)、仮城の譬え(仮城喩品)、衣珠の譬え(授記品)、髷珠の譬え(安楽行品)、医子の譬え(寿量品)である。

三界の火宅の譬えとは、次のような内容の話である。この世を三界とし、そこに住んでいる人間たちが、家が火事になっているのも知らず、浮かれ騒いでいる。そのまま放置しておけば焼け死んでしまうに違いない。そこでその家の父親が、方便を用いて子どもたちを家の外に連れ出し、その命を救ったという。この話のように、慈悲深い仏は、三界で堕落している衆生を、方便をもって救い出すというのが、この譬喩の眼目である。要するに、仏が衆生を救済するのに、方便をもってしたということであり、その方便として譬喩が使われているわけである。

お経の構成としては、釈迦仏とその高弟舎利弗(シャーリプトラ)との対話という形をとっている。舎利弗は釈迦十大弟子の筆頭と称され、般若心経では、観自在菩薩が語りかける相手となっている。そのシャーリプトラに釈迦仏が授記するところからお経は始まる。授記というのは、仏の教えを完璧に授与するということで、授記されたものは来世で自身が仏になることを約束される。その舎利弗に向って釈迦仏は、将来仏となったときの心得を語る。その心得というのが、三界の火宅の比喩を用いて語られるのである。

まず、舎利弗への授記。釈迦仏は次のように言って舎利弗が将来仏となることを予言する。「舎利弗よ、汝は未来世において、無量・無辺・不可思議の劫を過ぎて、若干の千万億の仏を供養し、正法を持ち奉り、菩薩の行ずるところの道を具足して、当に仏となることを得べし。号を華光如来・応供・正遍知・善逝・世間解・無上士・調御丈夫。・天人師・仏・世尊といい、国を離垢と名づけん」。このように舎利弗は、いましばらく菩薩としての修行を経て後、成仏して華光如来となり、その仏国土は離垢というと予言されるのである。

舎利弗本人が喜んだのは無論だが、大勢の比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷等、その場に居合せた大衆も大いに喜んだ。そのわけは、菩薩ではなく阿羅漢と思われていた舎利弗が成仏できるのであるから、自分らにもその可能性があると思ったからだ。じっさい釈迦仏は、一乗の教えを説いて、すべての衆生を差別なく成仏させることができるのである。

その一乗の教えについて、釈迦仏は三界の火宅の比喩をもって説くのである。大衆のなかには、誰でも成仏できるという釈迦仏の教えに心服できない者もいるので、それらの者でも理解できるように、是非わかりやすく説いてもらいたいとの舎利弗の願いに応える形で、釈迦仏はこの譬喩を語る。その理由を釈迦仏は次のように言う。「今、当にまた譬喩をもって、更にこの義を明らかにすべし。諸々の智ある者は、譬喩をもって解ることをえたればなり」と。つまり、比喩は道理を理解するための有効な手段だというわけである。

そこで三界の火宅の譬喩が語られるわけだが、それにあらためて触れると、概略次のような内容の話である。ある所に大長者がいて、大きな屋敷に住んでいた。その屋敷には一つの門しかなかった。忽然として屋敷が火災になった。邸の中には長者の子供らがいて、遊びに興じていた。長者は早く外に出るように促すが、子供らは遊びに夢中になっていて、言うことを聞かない。そこで長者は方便を思いついた。子どもらが好きな、羊車、鹿車、牛車を与えるから外に出て来てそれを受け取りなさい、と呼びかけたのである。子供たちは喜び勇んで外に出てきた。そのことで火災の難から逃れることができた。その後長者は、子供らそれぞれに同じ大車を与えた。

この譬喩では、長者は、子供らを助け出すための方便として、羊車などを持ち出したわけだが、実際に与えたのは別の大車だった。これは約束と違うことをしたといえるが、それを果たして虚妄と言えるだろうか。その問いに対して、二つの側面からの答えがある。一つは、子供らの命を救うために咄嗟に思いついた方便なので、虚妄とまでは言えないというもの。もう一つは、長者が与えた大車は、大乗の乗物であって、それに対して約束した羊車等は、小乗の乗物であった。だからこの場合、長者は小乗の教えをもって子供らをおびき出し、大乗の教えを与えたということになる。それは大きな目で見れば、子供らにとってよかったのである、と。

この譬喩は、小乗と大乗との関係を物語っている。長者が小乗の乗物で子どもたちを誘惑し、あとで大乗の乗物を与えたように、仏は小乗の教えを利用しながら、大乗の教えを説くというのである。その場合、三界の火宅は、衆生が生きている世界の比喩となる。三界の火宅が火に包まれているように、この世はさまざまな危険で満ちている。その危険を知らないでいると、やがて身を亡ぼすだろう。そうならない前に、危険に満ちた世の中を脱出し、安全な場所に移らねばならない。仏は慈悲心から衆生を安全な場所に移してやるのである。

この譬喩の、長者と子どもとの関係は、仏と仏子との関係に比される。長者が愛する子どもたちを火から救ったように、仏は仏子たちをこの世の危険や汚濁から救い出してくれるのである。

仏の偈の中の次の一節は、仏と仏子との関係について説いたもので、法華経のなかでももっとも有名な部分の一つである。
  三界はやすきこと無く 猶、火宅の如し
  衆苦は充満して 甚だ怖畏すべく
  常に生老 病死の憂患ありて
  是の如き等の火は 熾然として息まざるなり
  如来は既に 三界の火宅を離れて
  寂然として閑居し、林野に安らかに処せり
  今、この三界は 皆、これ、わが有なり
  その中の衆生は 悉くこれ吾が子なり
  而も 今、 この所は 諸の患難多く
  ただ、われ、一人のみ 能く救護をなすなり


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