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法華経を読むその四:信解品


法華経「信解品」第四は「譬喩品」第三の続編あるいは姉妹編のようなものだ。「譬喩品」においては、仏から授記を受けて、未来の成仏を確約された舎利弗について、本人の舎利弗が喜んだのは無論、その場に居合せた他のものたちも歓喜した。自分らにも、舎利弗同様成仏の可能性があると思ったからだ。これについて釈迦仏が、仏の立場から衆生の救済について語る。それを三界の火宅という譬喩を通じて語ったので、「譬喩品」といわれるわけである。それに対して「信解品」は、弟子の立場から救済されることの喜びについて語る。それを同じく譬喩を通じて語るのだが、その譬喩というのが長者窮子の譬えである。この譬えを通じて、長者が息子を常に思いやっているように、仏が仏子をつねに思いやっていることへの確信が語られる。題名にある信解とはその確信をさして言うのである。

場面は、「譬喩品」の場面の続きである。舎利弗のほか大勢の弟子や比丘尼たちがその場に居合せたわけだが、この章で活躍するのは、須菩提、摩訶迦旃延、摩訶迦葉、摩訶目犍連の四人である。いずれも舎利弗とならぶ釈迦仏の高弟で、須菩提は解空第一、摩訶迦旃延は論議第一、摩訶迦葉は頭陀第一、摩訶目犍連は神通第一と称された。

彼ら四人は、釈迦仏に向って右肩をあらわにし、右膝をつき、合掌して拝みながら、歓喜の言葉を述べた。すなわち、自分らはいままで小乗の教えに満足して、自分だけが涅槃の境地に達すればよいと考え、ほかの衆生を教化しようなどとは露も考えず、また成仏を願うこともありませんでしたが、いま仏が舎利弗に授記される様子を見て、自分らにも成仏の可能性があることを知りました。私たちは仏の子として、つねに仏によって見守られていることをあらためて感じ、仏によって成仏に導かれるという確信を得ました。いま、そうした私たちの気持を、比喩を通じてあらわしたい。そう彼らは言って、長者窮子の譬えを語るのである。

長者窮子の譬えとは、仏を長者に、仏子を窮子に譬え、長者が窮子を常に見守っているように、仏もわれら仏子を見守って下さるという確信を表現したものである。譬え話の具体的な内容は、次のようなものである。

ある父子がいた。子は幼い時に父の家を出、諸国を放浪しながら50年が過ぎた。ある時、父の家を通りがかったが、そのあまりの荘厳さにたじろぎ、ここは自分のようなものには縁のない所だと思って立ち去った。父親はそれが自分の子だと知って、なんとかして連れ戻そうとする。しかしまともな理屈では来てもらえないと思い、息子に便所掃除の仕事を与えて、自分の手元に置こうとする。息子も、便所掃除なら自分の性にあっていると思い、父親の家で働くことにした。かくしてまた二十年が過ぎて、父親はいよいよ寿命が尽きかかった。その時に、父親はそれまでの経緯を息子に詳しく語り、膨大な富を息子に委ねた。それについて息子は、自分は意図して財産を得たいとは思わなかったが、期せずしてそれを得ることとなった、と言って自分の幸福を喜んだ、というような話である。

この話の中の長者が仏であり、窮子が仏子である。仏は仏子を常に見守り、仏子は仏の慈悲によって救済され、成仏することができる、というのが、この話の眼目である。

この譬え話の中で、適宜仏教的な思想が語られる。そのなかで、有名な部分を一つとりあげよう。次のようなものである。「世尊よ、大富長者とは、則ちこれ如来なり。われ等は、皆、仏子に似たり。如来は常に、われ等は為れ子なり、と説きたまえばなり。世尊よ、われ等に、三苦をもっての故に、生死の中において、諸の熱悩を受け、迷惑し、無智にして、小法を楽著せり。今日、世尊はわれ等をして、思惟して諸法の戯論の糞をのぞかしめ、われ等は中において、勤加し精進して、涅槃に至る一日の価を得たり。既に、これを得巳て、心大いに歓喜して、自らもって足れりと為せり」
  
かれらは、三苦のために苦しみを受けて、あの窮子のように思い悩んだ挙句、小さな悟りで満足していたと言い、それがいまや仏によって迷いを取り除かれ、本当の涅槃に行ける道を教えられたといって歓喜するのである。ここで三苦というのは、苦苦、壊苦、行苦をいう。苦苦とは、病気など誰もが体験する苦しみをいい、壊苦とは老いなど崩れ去っていくことへの苦しみをいい、行苦とは変化することへの怖れをいう。この三つの苦で、人間の苦悩を代表させているわけである。こうした苦しみに悩んでいたのが、譬え話の中の窮子であり、我々であるが、そんな我々の悩みを、仏は完全に取り除いてくれる、というのである。

この「信解品」の説く所を簡単に言えば、二つに集約される。一つは、仏はつねに仏子を見守り、その救済のために意を砕いておられるということ、したがって仏子たる我々衆生は、仏を深く信じるべきだということである。もう一つは、仏は衆生を教えるについて、その能力に応じた語り方、すなわち方便を用いられるということである。この後者については、信解品の最後の部分で次のように説かれている。
  諸仏は法において 最自在を得たまえり
  諸の衆生の 種々の欲楽と
  及び其の志力を知りたまいて 堪任する所に随いて
  無量の喩をもって 為に法を説きたもう
  諸の衆生の 宿世の善根に随い
  また、成熟と 未成熟の者を知りて
  種々に籌量し 分別し知りし已りて
  一乗の道において 宜しきに随って三と説きたもう



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