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餓鬼草紙:平安時代末期の葬送風景




鎌倉時代の初めに制作された「六道絵」の一つに「餓鬼草紙」がある。餓鬼とは人が死んだあとの、成仏できないでいる霊魂のあり方をあらわすものだが、この餓鬼の様々な様相を絵に現したのが「餓鬼草紙」だ。このうち、「塚間餓鬼」と称されている一枚は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての、埋葬場所の有様を伺わせる貴重な資料ともなっている。

絵には五体の餓鬼が描かれている。彼らがいるところは死体の埋葬場所=墓場である。墓場には、三つの盛土塚、二つの石積塚があるほか、四人の死体と、散乱した骨が描かれている。

盛土塚は貴族などの身分の高い者を土葬したもの、石積塚は火葬または改葬後の墓だろうと思われる。死体のうち一体は木棺に納められ、二体は蓆の上に寝かせられ、一体は白骨化した状態で地上に横たわっている。これらの遺体は、風葬のさまを描いたものと考えられる。平安時代の末までは、身分の低い者の間では、遺体を野ざらしにする風葬が一般的だったのだろう。

塚や死体の合間を縫うように餓鬼がうろついている。彼らはこの墓場に葬られた遺体から抜け出てきた亡霊なのである。その餓鬼のひとりが、膝の上に髑髏を抱えているのが見える。その髑髏は、餓鬼にとっての、かつての自分自身の亡骸なのかもしれない。彼は自分自身の亡骸と対面することで、何を感じているのだろうか。

この絵は、我々に多くのことを教えてくれる。まず、平安時代の終わりころまでは、庶民の間では風葬といって、遺体を野ざらしにすることが普通だったらしいこと。そのことは、当時の庶民が遺体に特別な価値を認めていなかったことを物語っているのだろう。

次に、死んだ後の霊魂を餓鬼と言う形で表象するということは、当時の人が人間の死後のあり方に深い関心を抱いていたことを伺わせること。餓鬼という観念は仏教伝来のものと考えられるが、それに、この絵にあるような姿をとらせたのは、当時の日本人の感性だったと思われる。

仏教の教えでは、餓鬼とは六道の一つであり、死んだ人の霊魂の一部はそこでさまようこととなっていた。霊魂が墓場のまわりをさまよい、なおかつ、自分の亡骸と対面するなどというイメージは、当時の日本人が作り出したユニークな営みだったと考えられる。恐らく、日本人の霊魂観が、そこに深くかかわっているのだと思われる。

また、この絵では土葬と火葬とが相並ぶイメージとして並置されている。土葬が風葬の進化した形態だとすれば、火葬はそれとは断絶した葬送形態である。この互いに断絶しあったものが、同じ画面に共存しているところが、この絵のもっとも考えさせるところだ。

ともあれ、この絵に描かれた光景は、鳥野辺や木幡といった京都周辺の葬送場所のイメージそのものと考えてよいだろう。人々は死者の亡骸を葬送場所に放置したあとは、殆ど顧みることがなかった。そこは死者と餓鬼の世界であって、生きている者が近づくべき場所ではなかったのである。

(参考)山折哲雄「死の民俗学」岩波書店


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