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火葬と遺骨尊重


近世以降の日本人は、死者の遺体を火葬したうえで、その遺骨を大事に保存して敬意を払うということを基本にしてきたが、これがヨーロッパ人の目には奇異に映るのだと民俗学者の山折哲雄はいう。(「死の民俗学」)

というのも、火葬とは遺体損壊の究極の方法であるとの見方が前提にあるからだろう。損壊と保存とは相矛盾する。事実、火葬の本家たるインドでは、遺骨は川の水に流されて、保存されることはない。遺体にこだわることは全くないのである。これに対して、遺体にこだわる文化では、キリスト教圏を含めて、形を残したままで埋葬するのが普通である。

日本で火葬が導入されたのは文武天皇の時代、西暦700年のことである。その後持統天皇が、天皇としては初めて火葬され、それを契機にして皇族や貴族たちの間で火葬が広まっていったとされる。その際、遺骨がどのように取り扱われたかが問題となるが、山折は初期の火葬においては、遺骨は必ずしも大事に扱われなかったと推論している。

山折は、柳田国男を援用しながら、古代の日本人にとっては、死後の霊魂のあり方が関心の中心であって、遺体そのものはあまり問題とならなかったのではないかとも言っている。こうした文化にあっては、火葬後の遺骨についても、あまり問題とすることはなかっただろうと推論する理由は十分にある。

遺骨が尊重されるようになるのは、藤原道長の時代の前後からだと山折はいう。道長自身藤原氏の墓地であった木幡の地に浄妙寺を建立し、一族の諸亡霊を弔うために、その遺骨を丁寧に埋葬した。また、一条天皇は寛弘8年(1011)に火葬されたうえで、その火葬骨が円城寺に安置されたといい、次いで堀河天皇も火葬骨が香隆寺に安置され、その御骨所に詣でるものが多くなったとある。

このように、11世紀を境にして、遺体を火葬したうえで、その骨を寺の墓地に安置して詣でるという、今日と同じような遺骨尊重の葬送文化が、庶民の間でも定着していったと山折は推論している。

面白いのは、このような遺骨尊重文化の定着に、高野山が深くかかわったということである。納髪、納骨といって、身体の一部や遺骨を高野山へ収める風習が12世紀ころから貴族社会を中心に広まった。それは、高野山が、真言密教の根本道場であるとともに、来世往生を約束する山岳信仰の霊場であったことと関連している。高野山へ納骨することで、極楽浄土に生まれ変わるという信仰が、こうした行為を普及させたわけである。

高野山への信仰を広く説いて回ったものに高野聖があったが、彼らは全国津々浦々を歩き回りながら、庶民にたいして高野山への結縁を進めて歩いた。納骨は結縁の象徴的な形態と考えられたのである。

以上の過程を、山折は次のように総括する。「まず第一に、11世紀ころを境にして、とりわけ貴族の間に遺骨(火葬骨)に対する観念や態度に変化が認められるようになり、それが12世紀の高野山納骨の一般化とあいまって、しだいに遺骨の保存ひいては遺骨の尊重という観念を生み出した。そして第二に、そのような観念の一般化を推し進めるうえで大きな役割を果たしたのが、浄土教の信仰と来世信仰の流布であったということになるのであろう」

この議論を大局的にみると、火葬といい、遺骨尊重といい、日本古来の風習に根をもったものではなく、外来の文化に染まった結果だという印象を与える。しかし、そもそも日本には、洗骨の風習に象徴されるような、遺骨を尊重する文化が存在したという事実もある。

洗骨は、沖縄や奄美などで、近年まで行われていた風習で、二次葬あるいは複葬と呼ばれる。一時的な埋葬の結果白骨化した遺体の骨を洗い、それを本格的な墓に埋葬するというものであるが、これが遺骨尊重の原点だと考えることには、それなりの理由があるといえる。

山折はまた、遺骨尊重は、古代において行われていたもがり(風葬)の儀礼に原点があるのではないかとする五来重の説を紹介している。もがりにおいては、死者を一定期間風葬し、その遺体が白骨化した後で、それを埋葬するということが行われた。この儀式の精神が仏教化したもの、それが遺骨尊重だとするのである。

洗骨といい、もがりといい、死者をいったん白骨化の過程にさらし、その後に遺骨を埋葬するという点では共通している。


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