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正法眼蔵読解:道元の思想の森に踏み入る


正法眼蔵は、いうまでもなく道元の主著である。この著作はしかし、統一した構想のもとに一括して書かれたものではない。多くの巻は、折に触れて道元が示衆というかたちで弟子たちに説いた教えを後にまとめたものである。その説教の多くは、道元の第一弟子懐奘が文章化(書写)した。懐奘は別途、道元の教えをまとめた著作「正法眼蔵隋聞記」を書き残している。

正法眼蔵の現存する形は、岩波文庫の現行版(四冊本)に収められているので、容易にアクセスできる。七十五巻からなる本体部分と、十二巻からなる追加部分からなる。そのほか、六巻の付録がつく。付録の中で「辯道話」については、岩波文庫は全体の冒頭においている。道元の初期の思想が集大成されているからであろう。

そういう形になったのには、いきさつがある。七十五巻の最後の巻「出家」ができたのが道元四十六歳のときのことで、そのさい道元は、これに二十五巻を加えて百巻にする構想を抱いたという。とろこがその構想が実現する前に、道元は五十三歳で死んでしまうので、現存するような(岩波文庫現行版のような)形になったのである。なお、岩波文庫の旧版では、いわゆる九十五巻本というものが収められていたが、これは道元が書いた以外のものも含まれているとされ、岩波文庫の現行版が、正法眼蔵の決定版だとされる。

道元は二十三歳の時に、師の明全(栄西の弟子)とともに宋へわたり、主に禅の修行をした。そして二十五歳のときに、天童山の如浄に師事し、心身脱落という言葉を聞いて得度した。心身脱落が何を意味しているかについて、道元は正法眼蔵の初期の巻の中で、自分なりの考えを詳細に説いている。いかにも道元らしい思想であり、自分を含めてあらゆるものごとにこだわらず、虚心に只管打坐すべきだというような内容である。

二十七歳の時に単身帰国し(師の明全は宋で死んだ)、とりあえず京都の建仁寺(栄西の拠点)に仮寓。その後、三十三歳のときに京都深草に草案を結び、興聖寺と称した。「辯道話」を書いたのは三十一歳のときであり、そのなかで道元は、宋で体得した禅の神髄を書き記している。その上で、禅体験の各論というべきものを、示衆という形で展開していき、それがやがて正法眼蔵に結実していくわけである。正法眼蔵本体の最初となるのは、「魔訶般若波羅蜜」と「現成公案」であり、いづれも道元三十三歳の時のものである。

三十四歳のときに懐奘を弟子にする。以後懐奘は道元が死ぬまで身近に仕え、正法眼蔵の編集にもかかわった。そのころより、比叡山による道元弾圧がはげしくなったこともあり、道元は四十三歳の時に越前の豪族波多野氏の招きに応じ、越前志比荘に移転し、翌年大仏寺を開く。この移転の前後が道元のもっとも活動盛んな時期で、正法眼蔵の多くの巻が成立した。なお、この大仏寺は、道元四十六歳の時に永平寺と名を改められ、今日に至っている。

さてここで、正法眼蔵に盛られた道元の思想について取り上げてみたい。道元は禅者であり、したがって仏教者であるから、当然仏教思想を抱いている。仏教思想の根本は四諦と称されるもので、これは大乗・小乗を問わず、仏教全体に共通する思想である。これを単純化していうと、苦集滅道と言い表される。苦とは、この世は苦悩で満ちているという意味、集とは、苦の原因は煩悩であるという意味、滅とは、煩悩を取り除いてさとりに達するという意味、道とはさとりのために必要な修行という意味である。苦と集とは、人間の生きざまを含めた世界観というべきものであり、滅と道とは、信仰の実践にかかわるものである。すべての宗教は、世界観と信仰の実践についての教えからなる。仏教も例外ではない。ただ、宗教の宗派によって、比重の置き方が違う。道元については、世界観の部分を飛ばして、ひたすら信仰の実践について説くという特徴がよく指摘される。

たしかに、正法眼蔵という著作の大部分は、信仰の実践にかかわるものである。只管打坐とか直指人心とか、道元のスローガン的な言葉はどれも信仰の実践にかかわるものである。そこから道元には、信仰の実践を説きながら、肝心なその信仰の内容が明確ではないという批判がなされることがある。信仰の内容とは、世界観にかかわる所が多い。とろこが道元は、その世界観を曖昧にしている。世界観というのは、彼岸を含んだ宇宙のイメージを現わしたものだが、道元はそうしたイメージにはあまり興味を示さないのである。また、彼岸の信仰は宗教の神髄というべきものであるが、これは言葉では表現できないというのが道元の立場である。道元には、宗教的な実践である禅の体験は、言葉では表すことができないとする強固な信念があった。宗教的な体験は、言葉で伝わるものではなく、直接それを体験してみなければわからない。では、何が本物の宗教体験なのか、しっかりした定義はできないのではないか、という疑問が生じる。それについては、道元は、さとりを開いた人間同士には、言葉によらずとも自ずから、その悟りの体験を共有できる、という信念があった。その信念があるからこそ、道元は宗教体験についてあれこれ言葉で言い表さずに、直接人々に訴えかけることができたのである。

だが、正法眼蔵を読めばわかるとおり、道元は、宗教体験は言葉では表現できないといいながら、宗教的な実践については、饒舌といえるほど繰返し語っている。その宗教体験は只管打坐に尽きるのであるが、只管打坐によってなにが体験され、また、どんな世界が実現されるのか、については曖昧なままにしている。浄土宗諸派の信仰では、宗教体験は浄土に往生することを目指すという明確な目標がある。道元には浄土というような目標はない。あえていえば、さとりが目標であるが、そのさとりの内実がかならずしも明確ではない。人によってそれぞれ別のさとりのあり方があると言っているように聞こえる。

たしかに、道元には浄土の観念はないといってよい。だから、かれの宗教実践が何を目指しているかが見えない。だからと言って道元が、浄土のイメージを全く持っていなかったとはいえない。道元は、さとりの結果得られる世界がどのようなものかについて、それを華厳経が示しているものとしてイメージしているフシがある。さとりの境地とは、華厳経の世界だと言わんばかりなのである。もっとも道元は、お経の中では法華経をもっとも重視していた。死に際まで法華経を読んでいたという。

正法眼蔵はじつに難解な文章である。それは、言葉では表現できないものを、言葉で表現しているという逆説的な営みからくる。と同時に、道元の言葉遣いにもむつかしさの原因がある。道元はやたらとむつかしい言葉を使っているというのが、大方の人が抱く印象である。しかもその言葉遣いが実にユニークである。漢語の使い方にしても、辞書に載っている意味とは違う意味で使っている場合が多く、したがって道元だけに特有な言葉の使い方が多く指摘できる。道元のそうした漢語の使い方は、宋に留学中の江南地方の方言をそのまま使っていることが多い。つまり、日本人にとっては外国語である言葉を、そのまま日本語の文脈の中に取り入れて使っている。そこから、道元の文章には、外国語を読まされているような不自然さがあるように伝わってくる。その不自然さが、道元の文章を余計に難解なものにしている。

ともあれ、このサイトでは、正法眼蔵全巻を読み解きながら、道元の思想の森に分け入っていきたいと思う。なお、正法眼蔵本文の読解にあたっては、寺田透の「正法眼蔵を読む」シリーズ及び増谷文雄の現代語訳シリーズの世話になるところが大きかった。森本和夫の現代語訳シリーズにも一部あたったが、こちらは限定的な扱いにとどめた。


辨道話:正法眼蔵を読む

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現成公案その二心身脱落:正法眼蔵を読む

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