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田上太秀「涅槃経を読む」


田上太秀は仏教学者で、涅槃経全巻を現代語訳したそうだ。かれが訳したのは大乗系の涅槃経で、彼自身「大乗涅槃経」と称している。これとは別に原始涅槃経という小乗系の涅槃経があって、そちらは中村元が訳したものが岩波文庫から出ている。中村は田上にとって師匠格にあたるようだから、師弟力を合わせて大小の涅槃経を訳したということになる。

大乗涅槃経は、あの日蓮上人も法華経と並んで座右の書としていたというから、日本の仏教界への影響は大きかった。そのわりに法華経や華厳経ほど知名度がない。仏教の主要な教典にはそれぞれ個性というか特徴があるものだ。たとえば法華経なら性具説、華厳経なら性起説、般若経なら空の思想といった具合だ。ところが大乗涅槃経には、そうした顕著な特徴がないらしい。成立したのが仏教の歴史の中での比較的新しい時期であり、田上によれば複数の人々による合作の可能性が高いというせいもあろう。そんなこともあって、ほかの主要経典ほどには普及しなかったということらしい。

小乗涅槃経のほうは、釈迦の臨終の様子を描いている。涅槃という言葉は死と同義で使われている。大乗涅槃経のほうは、釈迦が死んだとは言っていない。釈迦は永遠の瞑想に入ったというような言い方をしている。だから同じ涅槃図でも、小乗系の涅槃図は、釈迦は死んだ姿で描かれている。それに対して大乗系の涅槃図では、釈迦は薄目を開けた姿で描かれている。釈迦は死んだのではなく、永遠の瞑想に入ったのだというメッセージが伝わってくるように描かれている。

歴史上の実際の出来事に近いのは、小乗系の経典のほうだと言われるから、仏教の始まった頃には、釈迦は人間として死んだと思われていた。ところが大乗では、色々な意味で釈迦の理想化が行われ、釈迦の人間としての側面より、理念的な側面のほうが重視されるようになったために、釈迦の涅槃も、人間としての死ではなく、仏性の実現というような抽象的なとらえ方が有力になったということだろう。

釈迦が涅槃に及んで実際に説いたとされることは、ほかの主要経典の書いてあることと共通するものがほとんどで、涅槃経独自の思想はあまり見当たらないということのようだ。深遠な教義が書かれているというより、大乗仏教の基本的な思想が書かれているということらしい。あの日蓮上人も、涅槃経をいわば仏教の入門書のように扱っていたらしい。

ところが涅槃経には、伝統的な仏教思想と相反する部分もあるという。そういう部分には、伝統的な教説が抱き合わせて書かれており、一冊の経典として矛盾が見られる。その理由として田上は、涅槃経の執筆者が複数いて、時間的にも長くかかったことの反映だろうと言っている。涅槃経が成立したのは四世紀の半ばごろだが、その頃までには仏教の主要経典はほぼ出そろっており、涅槃経はそれに屋上屋を重ねるといった具合だった。いずれにしても、釈迦の言葉を忠実に再現したものではなく、あくまでも創作なので、内容に自由な創意が入るのは避けられない。

涅槃経内部に見られる不統一の一例として田上は、諸行無常、諸法無我をめぐる矛盾をあげている。諸行無常も諸法無我も仏教の根本的な考えであり、涅槃経もそれを前提にしているのであるが、経典の一部にはそれを否定するような考えも出てくる。諸行無常とか諸法無我の思想は、なにごとも定住・不滅ではありえず、無住・有限だと説くものである。そういう前提に立って、釈迦も歴史的な人間としては無住・有限な存在だったと説く。ところがこの経典の一部には、仏性の永遠・不滅を理由にして、釈迦の存在の永遠性を説き、その点で諸行無常、諸法無我の考えに対立する思想が表明される。それはおそらく、仏性の永遠性を強調するあまり、その仏性の体現者である釈迦を永遠の存在として理想化したことの結果であろう。そうした理想化は、法華経や華厳経にも出ているのであるが、基本はあくまでも諸行無常、諸法無我であった。ところがそうした考えをひっくり返して、釈迦の不滅・永遠性を積極的に押し出した主張がこの経典の一部にある。それはおそらく、執筆者の一部に、そうした異端的な考えを抱くものがいたからであろう、と田上は推測している。

そんなわけで涅槃経には、永遠・不滅の仏性を強調する特徴がみられる。だから、法華経などに比べて際立った特徴のないと言われる涅槃経を、仏性を説いた経典だということもできよう。

仏性という言葉は、小乗の経典類には出てこず、もともと大乗仏教に特徴的な思想だった。その思想を大乗涅槃経は、経典の中核に据えているわけである。そういう点で、涅槃経は仏性を説いた経典といえるのである。無論法華経をはじめほかの大乗経典でも仏性という言葉は使われているが、それを集中的に取り上げたのはこの大乗涅槃経ということらしい。

仏性についても、涅槃経内部には不統一が見られる。それを田上は、「一切衆生悉有仏性」と「一切衆生即仏性」の対立として整理している。ごく単純化していうと、「一切衆生悉有仏性」とは、すべての衆生には生まれながらに仏性が備わっているが、それが顕現するためには厳しい修行が必要だとする考え、一方、「一切衆生即仏性」とは、極端な話、修行如何にかかわらず衆生には仏性が備わっており、それが自然に顕現するということになるという考えだ。これは法華経の性具説と華厳経の性起説の対立とほぼ同じようなものと考えられる。華厳経が成立したのは、涅槃経成立のすぐ前だったらしいから、華厳経に深くかかわった人が涅槃経の成立にもかかわっていたと推測することができる。要するに、法華経から華厳経への移行の動きを、この涅槃経も反映しているのではないか。

法華経といえば、比喩の多いことで知られるが、大乗涅槃経にも比喩の話が非常に多くみられるということだ。仏教は、なにごとかを証明しようとする場合、因果関係による説明ではなく、比喩によって説明することが多い。比喩には、表面的な類似関係は見られても、論理的な因果関係は見られないのが普通である。実証的な学問は、論理的な因果関係を中心にものごとの証明を組み立てていくのであるが、仏教的な思考にあっては、比喩によって説明する場合がほとんどである。そういう思考を小生は、論理的な思考に比較して、隠喩的な思考と呼んでいるが、その隠喩的な思考を組織的に用いるところに仏教経典の最大の特徴がある。西洋的な形式論理に親しんだ人には、仏教的な比喩は根拠に乏しいと思われるかもしれない。


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