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戦後の終わり:日本とドイツ


戦後には終りがあるはずだとすれば、その時点をどこに置くか。日本の場合には1972年の沖縄返還、ドイツの場合には1990年の東西ドイツの統一だろう。どちらも、戦後取り残された最大の課題だった。その課題をともかく解決したことで、両国とも戦後から抜け出て、新しい時代に入ったといえるのではないか。

沖縄は、サンフランシスコ講和条約によって、アメリカの施政権下に引き続き置かれた。アメリカが沖縄の施政権に拘ったのは、当時進行中の朝鮮戦争にとって沖縄が重要な役割を果たしていたからだ。日本に主権を回復させた後でも、沖縄を軍事基地として自由に利用するためには、施政権を留保しておくことが必要だった。また沖縄は、対中国の前線基地としての意義もあり、更にはアメリカの東アジア政策にとって重要な意義をもっていた。そういう事情からアメリカは、引き続き沖縄を支配することを選んだのである。

60年代にはベトナム戦争が起き、沖縄のアメリカにとっての重要性は、依然変わらなかった。そういうなかで、米兵によるあいつぐ不祥事件などを契機に、沖縄では本土復帰運動が盛り上がったが、ケネディやジョンソンの政権はこれを無視した。ベトナム戦争を遂行する上での、沖縄の重要性を理解していたからだ。

潮目が変わったのは、ニクソンが登場してからだ。ニクソンは大統領選での公約どおり、ベトナム戦争の終結に努力した。また、沖縄では、米兵による少女暴行事件を契機に反米運動が盛り上がり、沖縄の力による支配がアメリカにとって重荷になってきた。そういう事情が重なってニクソンは、沖縄の日本への返還を決意したのだと思う。その決意を促したのは、やはり反米と本土復帰をスローガンに盛り上がった沖縄の人々の熱意だったのではないか。

かくして、1971年6月に沖縄返還協定が締結され、翌1972年5月に返還が実現した。なお、沖縄と同じくアメリカの施政権下に置かれた奄美諸島と小笠原は、沖縄に先立って返還されていた。これで、日本は一部を除いて主権を回復したことになる。その一部というのは、北方領土のことだ。歯舞、色丹、国後、択捉の北方四島は、終戦間際にソ連に侵略支配されて以来、返還が実現していないが、これは戦争によって略取された領土なので、そう簡単には解決しない。だから未来への課題として何時までも残るだろう。

沖縄の日本への返還といっても、無条件というわけにはいかなかった。基地はそのまま残ったし、本土ではタブーであった核の持ち込みが日本政府によって許容されるという密約があった。アメリカとしては、沖縄の施政権を返還することで、失うものは殆どなかったわけである。かえって、直接支配のわずらわしさから解放され、従来の利権はそのまま維持できるという都合のよいかたちになったのである。

沖縄には、返還以前から米軍基地が集中していたが、地元の基地負担軽減の訴えにもかかわらず、基地が集中する事態は一向に改善されていない。したがって沖縄は、米軍による日本への基地の需要を一手に引き受けさせられている状況が続いている。その原因は、日米安保条約の存在にある。この条約が、日本のアメリカへの従属を固定化し、米軍基地についてのアメリカ側の要求を受け入れざるを得ない状況を作り出している。そのことによる矛盾を、日本政府は沖縄に押し付けることで、本土に基地を置いた場合に予想される不満をかわしているわけである。

沖縄の返還が、主として国際状況の変化によって実現したと同じく、東西ドイツの統一も国際情勢の変化を反映したものだった。1985年にソ連の指導者となったゴルバチョフは、ペレストロイカと称するデタント政策を推進。アフガニスタンから撤退して対西側融和政策を進める一方、国内では民主化を進め、ソ連の衛星国圏であった東欧への介入を控えた。それによって、東欧では1989年を中心にして、東欧革命と呼ばれるような民主化運動が高まりを見せた。そういう動きは東ドイツでも広がって来たが、ゴスバチョフは民衆に対して抑圧的な姿勢を示したホーネッカーの指導部を厳しく批判したりした。

1989年の11月9日に、ベルリンの壁の崩壊と呼ばれる事態が起った。これは、東ドイツ国民に対して西ドイツへの移住を求める措置に反応した膨大な市民が、壁に押し寄せたことから起こった事態で、この壁の崩壊が、長い間のドイツの東西への分断に終止符をうつきっかけとなった。この事態を前に、東ドイツ政府は機能不全状態に陥り、東ドイツの国家体制は、怒涛がくずれるように崩壊していったのである。

1990年3月に、東ドイツで自由選挙が実施され、それを通じて東西ドイツ統一への東ドイツ国民の意思が示された。西ドイツがそれを受け入れる形で、東西ドイツの統一に向けての一連の動きが始まった。まず、戦勝国の合意が必要だった。西ドイツにかかわる講和条約には、将来ドイツが統一しようとする場合には、米英仏ソ四か国の同意が必要との規定があったからだ。また、東西がどういう形で統一するかも問題だった。東ドイツ政府が機能不全状態にあったので、西による東の統合になることには、誰も異存はなかったが、どういう形でそれを実現するかについては、はっきりした決まりがあるわけではなかった。

西ドイツとしては、将来の東西ドイツ統一を見据えて、ボン基本法を過渡的な憲法と位置付けていた。東西が統一する時点で、ドイツ国民全体による新憲法制定を予定していた。しかし現実の事態はそういう遠回りを許さなかった。千載一遇のチャンスと思われる事態を前に、東ドイツ政府がマヒしているうちに、西ドイツのイニシャチヴによって進めてしまおうという意向が強く働いた。その結果、ボン基本法の条項を活用して、事実上東ドイツを西ドイツに吸収合併するというやり方がとられた。

ボン基本法には、州が連邦を構成するとなっており、州の連邦加入の要件が示されていた。東ドイツは州による連邦制をとっておらず、したがって県だけしか存在しなかったが、急ぎその県を統合して州を作らせ、その州をドイツ連邦共和国に加盟させるという形で、東ドイツを西ドイツに統合するという方法をとった。だから東ドイツは、国家として西ドイツと統合したわけではなく、一旦国家を解体されたうえで、新たに設置する州を単位にして新ドイツに統合されたのである。いわば、西ドイツによる東ドイツの、一方的な吸収合併だったわけだ。

いづれにしても、東西ドイツの統一を経て、ドイツの戦後処理は基本的に終了したといってよい。東ドイツの統合により、ドイツは一時混乱に陥ったが、その混乱を乗り越えて、西ヨーロッパ最大の人口を誇る強国としての位置を確かなものにした。そのドイツは、いまやEUの盟主的な役割を果たし、国際社会において強い影響力を誇っている。一方日本は、全面的に主権を回復したとはいえ、事実上は、アメリカに強く従属し、とてもまともな独立国とは言えないような、屈辱的な扱いを受けている。アメリカへの従属は近隣諸国への無関心となり、その結果東アジアの近隣国から孤立しがちである。そんなわけだから、国際的には、日本はアメリカの付属品のようにみなされ、一人前の国家として尊敬されることは殆どないと言ってよい。この違いはどこから来ているのか、日本人はもっと自覚的になるべきであろう。



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