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日本人とドイツ人


オランダ出身のジャーナリスト、イアン・ブルマの著書「戦争の記憶・日本人とドイツ人」は、日本人とドイツ人の戦争への向き合い方について考察したものである。ジャーナリストらしく、インタビューを介して基本情報を収集し、その情報に基づいて、戦後の日本人とドイツ人が、先の戦争についてどのように考えているかを追求したものである。その結果ブルマがたどりついた確信は、日本とドイツでは相違点も多いが、共通点も多かったということだ。だが、ブルマは、あとがきの中で書いている通り、自分のこの本を以てしても、日本人は理解不能な特別な人種だという欧米人の偏見が正されなかったことを嘆いている。とはいえ、日本人の小生がこの本を読んでも、日本人の特異性を感じさせられないではいられない。その点、ドイツ人はヨーロッパ人種の一員として、人間としてノーマルなところのある人種だというような仮定が伝わって来る。そのあたりは、ドイツ人が自分たちの犯した罪に自覚的なのに対して、日本人が、政治リーダーを含めて無自覚的なことに対して、ブルマが強い違和感を覚えることによるのだろう。

日本人とドイツ人それぞれの、先の戦争についての向き合い方とか考え方とかいったものを象徴する事例としてブルマは、ドイツについては連邦議会議長イェニンガーの演説が引き起こした事態、日本については本島長崎市長の発言をめぐって起きた事態を、取り上げている。イェニンガーは、1988年11月10日に開催された連邦議会において、この日がクリスタル・ナハトから50周年であることから、記念演説をした。その演説は、この本の翻訳文で読むかぎり、そう的外れなことが言われているようには思えない。この演説の趣旨は、ヒトラーの一派が反ユダヤ主義を徹底化させたことを非難し、その災厄の犠牲になったユダヤ人に対して、ドイツ人として謝罪することにあるようなのだが、その意図は、会場の議員たちには伝わらず、社会民主党や緑の党など左派の議員たちが、抗議の意思を示して退場し、保守派の議員も不満を表明した。要するに、クリスタル・ナハトをテーマとした演説としては、大失敗だったわけである。

なぜ、大失敗したか。演説本文を読んだだけでは、事情がよく呑み込めない。ブルマによれば、これにはそれなりの背景があるという。この演説に先立って、ユダヤ人女優、イダ・エーレがパウル・ツェランの感動的な詩を朗読していた。その詩の感動が、議場に色濃く残っているところへイェニンガーが登壇し、「紳士淑女の皆さん!」と始めた。このビジネスライクな言い方が、躓きの始めだったようだ。その後のイェニンガーの演説の仕方もよくなかった。紙に書いたことを、淡々と読み上げたのである。なんの感情もあらわさずに。

左派がイェニンガーを攻撃した理由は、それがクリスタル・ナハトの責任をヒトラーだけに押し付けて、ドイツ人としての責任意識が見られない、ということだった。要するに、謝り方が足りないというわけである。それに対して保守派は、余計なことまでしゃべりすぎだと言って反発した。ホロコーストの悪霊が、よういやく鎮められようとしているこの時期に、寝た子を起こすような真似はやめろということだったのだろう。ともあれこの騒ぎは、ドイツ人の戦争への向きあい方が、左派と保守派の間で、鋭く分裂していることを照らし出した。

本島長崎市長は、天皇の戦争責任に言及したために、保守派の反発を呼び、右翼の凶弾に倒れた。本島市長は、1988年12月7日、つまり翌日が真珠湾攻撃47周年にあたるという日に、天皇の戦争責任についてどう思うかという、議場における市議会議員の質問に対して、「戦後四十三年たって、あの戦争が何であったかという反省は十分できたというふうに思います。外国の色々な記述を見ましても、歴史家の記述を見ましても、私が軍隊生活を行い、特に、軍隊の教育に関係をいたしておりましたが、そういう面から、天皇の戦争責任はあると私は思います」と答えた。この言葉が、保守派の猛烈な反発を呼んだわけである。その結果本島市長のもとへは、連日右翼が押しかけて来て天誅を叫び、その挙句に右翼団体正気塾の幹部によって背後から狙撃されるに至った。市長は一命をとりとめたが、言論に対する露骨な攻撃は、日本社会に一定の衝撃を与えた。

イェニンガーが、ツェランの感動的な詩の朗読の直後に演説し、そのため彼のなげやりに見える演説の仕方が反発を買ったと同じように、本島市長の発言もタイミングが悪かった。その時、昭和天皇は生涯最後の時間を過し、死にゆきつつあった。日本中がそのことで神経過敏になっていた。誰もが天皇に対して深い敬愛の念を示していたのである。そういう時期に、天皇の戦争責任に言及することは、多くの国民には、場違いな愚行と映ったといってよい。だいいち、時期の如何にかかわらず、天皇の戦争責任をとりあげることは、当時の日本ではタブーになりつつあった。天皇が東京裁判に訴追されなかったのは、戦争責任がないことを連合国が認めたのであり、殆どの日本人もまたそう思っている。天皇に戦争責任がないということは、日本という国家にも戦争責任がないことを意味する。我々日本国民には、天皇ともども戦争責任はないのである。それをいまさら、天皇の戦争責任をあげつらう者は、我々日本人の戦争責任をもあげつらう者である。そんな輩は国賊と言うべきだ、というのが右派の言い分であった。

イェニンガーと本島市長をめぐって起きた事態は、日米両国における、国民の過去との向き合い方を物語っている。ドイツ人も日本人も、本音では、忌わしい過去のことは忘れたいと思っている。ドイツ人の場合には、表向きは過去の犯罪について謝罪し、日本人の場合には、それさえも認めたがらないところはあるが、基本的には、両国民とも、本音の部分では過去を忘れたがっているのである。したがって、イェニンガーや本島市長以外でも、忌わしい過去に触れたことで、ひどい目にあった者の例はある。

ブルマが、ドイツにおけるそうした事例として取り上げているのは、ドナウ川沿いの小さな町パッサウで起こったことだ。この町は、ニーベルンゲンとのかかわりで知られ、普段は牧歌的な雰囲気を感じさせる美しい街だということだ。その町に暮らす一人の少女が、戦争中における町の人々の行動について詳しく調べ、それを公表した。それが明らかにしたのは、町に住む大部分の人たちがナチスに心酔し、協力したということだった。中には、レジスタンスに従事したと言いふらしている人が、実はナチスだったことがわかった。こういう報告は、現在生きて町に暮らしている人にとっては、自分の身に直接かかわる事柄なので、すさまじい反発を呼び起こした。少女は殺害予告の脅迫を受けたり、ペットの猫がむごたらしい殺され方をされた。反発の主な理由は、そっとしておいてほしいことをことさらにとりあげ、自分たちの平安を乱したということだった。少女のもとに届けられた署名入りの手紙には、「あの時代を生きて来た私たちとしては、なぜ自らの顔に泥を塗り続けなければならないのか、と自問でざるをえません」とあった。要するにこの少女は、言わずもがなのことを言い立て、ドイツに泥を塗ったということになる。

日本のケースとしては、秋田県の花岡で行われた中国人徴用工の虐殺にかかわるものである。花岡には同和鉱業の事業所があって、戦時中そこに千人近い中国人が徴用工として強制労働をさせられていた。その一部が、ひどい待遇にたえられず脱走をはかったところ、地域住民を巻き込んで山狩りが行われ、つかまった中国人は、日本人によって虐殺された。この事件は長らく忘れられていたが、ある日本人が、取り上げたことで公になった。そのことに対しては、パッサウの少女と同じように、その日本人へのすさまじいバッシングがあった。忘れられていたものをわざわざ暴き出し、自分たちの顔に泥を塗るようなことは許せん、というのが、バッシングの主な理由だった。

これらの事例を通じて言えるのは、日本人もドイツ人も、本音の部分では、忌わしい過去を忘れたいと思っているということだろう。その部分は日独で共通しているのだが、相違している点もある、とブルマは強調することを忘れない。それは、ドイツ人は、表向きには、自らの過去に自覚的に振る舞うことだ。それに対して日本人は無自覚である。総理大臣の竹下登は、戦争責任は後世の歴史家が判断することだと言ったが、それは自らの責任を免れようとするものだ。総理大臣のこの発言は、戦争責任を認めたがらない日本人全体のメンタリティを代表していると考えられるが、そのメンテリティは、自らの責任を自覚していないという点で、ある種の幼児性を感じさせるとブルマはいう。そのうえで、ブルマは、日本人の精神年齢は12歳だと言ったマッカーサーの言葉を引き合いに出し、自分もそれに同意して見せている。



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