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冷戦と講和、日本の場合2:日本とドイツ


日本の講話問題は、日米安保条約の締結とセットになっていた。日米安保条約は、アメリカによる日本占領を、一部とはいえ継続させることを目的としたものだったが、それには朝鮮戦争を象徴的事態とする東西対立が強く影響していた。アメリカは、この対立を勝ち抜くために日本の基地を必要としていたし、日本も又、共産主義の脅威から身を護るために、アメリカの武力を必要としていた。そうした両者の思惑が一致したところで、日米安保条約と、アメリカを中心とした西側戦勝国との講和条約の締結が成立したのである。

1951年9月8日にサンフランシスコ講和条約と同時に締結され、1952年4月28日に発効した日米安保条約(旧条約)を虚心に読むと、その一方的でかつ片務的な性格に驚かされる。条約に書かれていることは、アメリカが日本国内に軍事基地を配備する権利を持つということで、しかもそれに尽きるということだ。要するに、それまでの日本占領に伴って配備していた軍事基地を、講和で日本が主権を回復した後も引き続き維持できると定めたものだ。その基地配備の目的は、極東の「平和と安全の維持に寄与」することであり、日本を外国の侵略から守るためとは書かれていない。そのかわり、日本が反政府勢力による内乱や騒擾に陥ったときに、日本政府の要請により治安出動する場合も含めて、「外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる」と書かれている。これはあくまでも「できる」規定であって、義務規定ではない。要するにこの条約は、アメリカの極東政策に奉仕するために、日本がアメリカに基地配備の権利を与えるものであり、それに対してアメリカは、外部からの攻撃から日本を守るために恩恵的な措置をとることはあっても、日本の防衛については義務を負わないという関係にある。それが、一方的で片務的だと評した理由である。

これはまさに国辱的な内容というべきである。講和後も外国に基地を配備する権利を認めることは、その見返りとして日本に得るものがない限りは、その分自ら主権を放棄したことになる。どうしてこのようなことになってしまったか。それを理解するためには、当時の世界情勢と、日本が置かれていた状況及びこの条約締結に向けての日米両国の外交交渉を十分に把握する必要がある。

当時進行中だった朝鮮戦争にとって、日本は米軍の最前線基地としての役割を果たせられていた。日本の基地がなければ、アメリカは朝鮮戦争を有利に戦えなかったはずだ。だから、戦争が進行している最中に、日本における基地配備の権利を放棄するわけにはいかなかった。かりに朝鮮戦争が近い未来に終結する見通しがあったにしても(現実には考えにくかったと思うが)、東アジアに出現した共産主義の中国とか、ソ連の影響を考えると、それに対峙するためにも、日本の基地は不可欠だった。それゆえアメリカは、講和条約発効後も日本の基地を自由に使えるように、日米安保条約を講和条約とセットで持ち出した訳である。アメリカとしては、日本の独立を認めるかわりに、アメリカに引き続き基地の配備を認めさせるという戦略に出たのである。

とは言っても、日本にもプライドがある。いくら敗戦国とはいえ、おめおめと主権を放棄するようなことはできない。米軍を引き続き駐留させることには、日本としても、基本的には異存はないが、しかしやり方というものがある。日本のメンツが立つようなやり方をとりたい。そういう意向は、吉田茂をはじめ、日本側の交渉責任者はもっていた。それゆえ、日米両国の間で、日米安保のあり方について、議論が交わされた。日本としては、まだ国連には加盟できてはいなかったが、国連の集団安全保障システムの中に、米軍による日本駐留を位置付けようとしたり、その駐留が戦後の占領の延長であるとの印象を弱めるために、いったん駐留軍を引き揚げさせたうえで、日米が対等の立場に立って集団安全保障の関係に入るといった案も出された。しかし結局は、占領の実質的な延長を思わせる旧条約の表現に落ち着いたわけである。

そこには、昭和天皇の強い意志が働いていたと、歴史家の豊下楢彦は推察している(「安保条約の成立」岩波新書)。豊橋によれば、吉田茂には日本側の交渉責任者として、日本の自主性をなるべく高めたいとの思惑があったが、昭和天皇は、共産主義への強い警戒心から、アメリカが引き続き日本に駐留することを強く願っていたということだ。その願いは、多少主権を制限される形になっても、とにかく米軍の駐留を確実に実現したいというものだった。必要なら、つまりアメリカから一方的に基地の配属を強要するという外見を和らげるためには、日本が自ら進んで米軍の駐留を求めるという形をとってもよいとまで考えていた。そういう昭和天皇の考え方が、旧条約の条文にも反映されていると豊下は考える。旧条約には、ほかならぬ日本国が、アメリカとの安全保障条約を希望し、「日本国内及びその附近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する」と書いてあるが、これは昭和天皇の意向を踏まえた表現だというわけである。

共産主義への昭和天皇の警戒心は並々ならぬものだったようだ。共産主義国家のソ連は、昭和天皇を裁判にかけて戦争責任を追及すべきだと主張していたし、国内の共産党勢力は天皇制廃止を叫んでいた。皇室の存続をなによりも優先する昭和天皇が、そんな共産主義勢力を不倶戴天の敵とみなすのは不思議ではない。どんな犠牲を払ってでも皇室の存続を安泰なものにするためには、日本が新憲法で自衛の軍備まで放棄したいま、米軍によって守ってもらうほかない。そう考えたとしても無理はないかもしれない。

そんな昭和天皇のことだから、交渉の行方に不安を覚えると、自分から積極的に交渉に介入した。日本の交渉責任者の頭越しにとどまらず、時にはマッカーサーの頭越しに、米政府に自分の意向を直接伝えた。そのことを豊下は、昭和天皇による「二重外交」だと表現している。またアメリカ側の責任者ダレスは、「宮中がマッカーサーをバイパスするところまできた」と評した。

そのダレスは、条約締結の数か月後に、雑誌フォーリン・アフェアーズに起稿した論文の中でこの条約の趣旨を説明して、次のように書いた。「アメリカは日本とその周辺に陸海空軍を維持し、あるいは日本の安全と独立を保障する、いかなる条約上の義務も負っていない」。これは、この条約の片務性について確認している言葉だが、こういう言葉をダレスが吐いたのには、昭和天皇の意向を踏まえて、アメリカは日本に対して恩恵的に軍を駐留してやっているのであって、何ら義務にしばられてのことではないと、正直に言っているわけである。

ともあれこの条約は、「望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」を、アメリカに一方的に保障した条約だったわけである。その片務性は、主として昭和天皇の意向を踏まえた形で、ダレスが吉田に呑ませたというのが、豊下の見立てである。



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