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冷戦と講和、ドイツの場合1:日本とドイツ


ドイツの講和問題の解決は、日本より遅れて、1955年までかかった。それには、ヨーロッパにおける冷戦の複雑な状況と、ドイツを占領していた四か国の思惑の違いが働いていた。ヨーロッパの冷戦は、東アジアにおけるような熱い戦争にはならなかったが、もし戦争になったら第三次世界大戦に発展し、ヨーロッパはもとより、人類文明の破滅につながりかねない深刻な問題だった。そういう状況の中で、ドイツ全体を対象とした講和条約は、当分非現実的だった。

冷戦の影響は、東西ドイツ分断の固定化をもたらした。ソ連は東ドイツを、対西側の最前線として位置づけ、事実上の属国化を追求した。東ドイツの共産主義政権は、ソ連の傀儡政権といってよかった。そういう中で、ドイツ全体を対象とした講和条約と、それによってもたらされる統一ドイツの出現は、当分はありえないことのように思えた。そういう状況を踏まえて、アメリカは西ドイツだけと講和条約を結び、西ドイツの主権を回復させたうえで、それを西側の軍事ブロックに組み込もうと考えた。一方ドイツの政治指導者アデナウアーも、西ドイツだけで講和を結び、その国家を西ヨーロッパに強く結びつけることを願った。こうして、米英仏を中心とした西側諸国と西ドイツとの間の講和条約の締結が当面の課題となったが、その実現はスムーズには運ばなかった。

最大の原因は、フランスがドイツに抱いていた不信にあった。フランスはドイツが軍事大国として復活することを望まなかった。できれば、ドイツがいつくかの小国に分裂することを望んでいたくらいだ。フランスは又、ザール地方への野心を隠さなかった。1947年にはザールラントをフランスの保護領にして、できれば将来フランスに統合するつもりでいた(ザールラントは1957年にドイツに復帰)。その上、ルール地方の石炭を開発するなど、ドイツ国内に露骨に利権を追求したりした。ドイツに対して非常に厳しい態度で臨んでいたわけである。

それゆえ、講和問題を進めるためには、フランスを説得しなければならなかった。問題は二つあった。ひとつは、ドイツがフランスにとって軍事的脅威にならないという補償をすること、もうひとつは、ドイツの工鉱業を、フランスのために役立たせることである。この二つの課題を解決することで、フランスの合意をとりつけ、西ドイツと西側諸国との間で講和条約を結び、ドイツを将来的に西ヨーロッパに強く結びつけること、それがアデナウアーの目標となった。

ドイツ国内には、西側諸国だけとの講和に反対する勢力もあった。とくに最大野党のSPD(ドイツ社会民主党)は、西側諸国だけとの講和は、国の分断を固定化するという理由で反対し、ソ連を含めた全戦勝国との講和を主張した。そのことによって統一ドイツ国家の再建をめざしたのである。しかし、当時の冷戦の状況を踏まえれば、全面講和は非現実的といってよかった。西ドイツの世論も、次第にアデナウアーへの支持に傾いていった。

西ドイツが、フランスにとって軍事的脅威にならないということについては、ドイツの軍事力を、フランスの制御のもとに置くという方法でクリアする方向で検討が進んだ。当時西側諸国は、NATO(北大西洋条約機構)を結成して、東側の軍事ブロックに対峙していたのであったが、ドイツの軍事力をNATOに加えることは排除された。NATOはあくまでも、戦勝国のうち西側ブロックの軍事同盟であり、そこに敗戦国のドイツを加えることは、問題外と受け取られたのである(もっともアメリカはドイツをNATOに加盟させることを考えたのだが)。そこで、NATOのほかに、西ヨーロッパだけを対象にした軍事同盟(西ヨーロッパ軍の創設を目的)を作り、それにドイツの軍事力を従属させようとする案がもちあがった。

その案は、プレヴァン・プランとして結実した(プレヴァンは時のフランス首相)。これは1950年8月にフランス政府によって示されたもので、西ヨーロッパ諸国の軍隊の統合と、その下におけるドイツの再軍備を想定したものであった。具体的には、フランス、西ドイツ、ベネルクス三国、イタリアを加盟国とし、加盟国共通の兵役義務法によって徴兵を実施し、加盟国共通の軍事予算を持つというような内容だった。これによって、ソ連の軍事力に対して西ヨーロッパが共同して防衛し、しかもドイツの軍事力をその枠組みの中に封じ込めるという効果を狙ったものだった。

一方、ドイツの鉱工業力をフランスのためにも役立たせるという課題については、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体構想が応えた。これはフランスのシューマン外相が1950年5月に提案したもので、フランス、西ドイツのほか、ベネルクス三国、イタリアを加盟国とし、石炭と鉄鋼についての共同市場を創設することを目的とし、それによって西ヨーロッパ諸国の経済的統合を図ろうというものだった。こうして、軍事面、経済面の両方から、西ヨーロッパ諸国は統合の方向へ動き出した。その動きが将来、EUまでつながっていくわけである。

ともあれ、こうした動きを背景に、フランスも西ドイツへの主権回復に反対する理由がなくなった。それによって、ドイツの講和問題を解決させるべく、西ドイツの主権回復のための条約(ドイツ条約)とヨーロッパ防衛共同体(EDC)条約とが、締結される運びとなった。この条約によってドイツは主権を回復することとなったが、いくつかの重要条件が留保された。それは、連合国軍隊のドイツへの駐留、ベルリンの地位、東西ドイツの再統一の三つの問題については、米英仏が権限を留保するというものであった。実際、1990年のドイツ統一は、この留保条件に基づいて行われたのである。

この条約をめぐって、ドイツ国内では激しい論争が行われたが、1953年春にドイツ連邦議会が条約を批准した。ところがフランスでは、EDC条約が議会において否決されてしまった。そこで講和問題は、一旦は暗礁に乗り上げたかにみえたが、そこにイギリスが仲介に入り、EDCのかわりにNATOに西ドイツを加盟させることで、EDCとほとんど同じ効果を保障するという解決策を示した。具体的には、西ドイツの防衛計画はNATOの支持に従う、NATOの司令官は西ドイツ軍の視察権を持つ、NATOの司令官は戦時には西ドイツ軍の作戦遂行権を持つ、というもので、EDCに比べればモデレートではあるが、西ドイツの軍事力をNATOすなわち西ヨーロッパと北米を含めた西側諸国の軍事同盟に密接に結びつけるものであった。

これによって重要な障害がなくなり、フランスも1954年の末には、議会がドイツの主権回復にかかわる条約を承認した。条約が発効したのは1955年5月のことである。その結果西ドイツは、主権国家としての体裁を整えることとなった。そのことは、当分の間、ドイツの再統一をあきらめるという決断を伴なっていたのである。



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