日本語と日本文化
HOME | ブログ本館東京を描く日本の美術日本文学万葉集プロフィール | 掲示板




戦争責任、ドイツ知識人の反応:日本とドイツ


第二次世界大戦の結果をめぐっては、ドイツは敗戦国として、戦争責任を一手に負わされることとなった。その責任には二つの側面があった。一つは人類史上最悪でかつ最大規模の戦争を引き起こした張本人としての責任、侵略者としての責任であり、もう一つは、人類の想像を絶するようなホロコーストを行った責任である。これらの責任は、ニュルンベルク裁判では、平和に対する罪及び人道に対する罪という新しい犯罪概念に整理された上、ドイツの戦争遂行責任者とホロコーストの実施者とが厳しく裁かれた。

戦争責任を裁判で追求することには、法の正義をめぐる議論であるとか、勝者が敗者を裁くことへの疑問であるとか、一定の問題がなかったわけではなかったが、おおむね大した批判もなく進行した。それには、ナチスドイツのあまりにも明白な侵略意思とか、ホロコーストがつきつけた醜悪な非人道性を、誰もが否定することができなかったからである。こういうことをする者は、まともな人間とは言われないが、といって人間以外の何物でもない。そういう怪物のような人間をどう裁いたらいいのか。そういう問題意識が、ニュルンベルク裁判をめぐっても出されたが、それ以外の、政治的・文化的な反省という形でも出された。もっとも、ドイツ国内からは、あまり深刻な反省の言葉は出てこなかったといってよい。いち早く反省の言葉を表明したのは、ナチスの迫害を逃れて海外に亡命していたドイツ人であり、またドイツ系のユダヤ人たちであった。一方、国内にいたドイツ人たちは、戦後は、自分がナチスと無関係だったとか、ナチスの行為に賛成していなかったとか、ナチスと自分との関係をやっきになって否定するのが精いっぱいで、ドイツの戦争責任を、自分のそれも含めて、冷静に分析しようとする空気は、ほとんど見られなかったと言ってよいのではないか。

ドイツの敗戦の意義について、いち早く反省を表明したのはトーマス・マンであった。トーマス・マンは1933年にナチスが政権を握るといち早くドイツを脱出し、スイスを経てアメリカに亡命していた。そしてアメリカの市民権もとっていた。そのトーマス・マンが、ドイツの敗戦を前にして、ドイツで人間として自己形成した者としての立場から、ドイツが抱えている問題について、ドイツ人に向ってではなく、アメリカ人に向っての講演という形で、ドイツの敗戦についての反省の言葉を述べたのであった。その公演の題はずばり「ドイツとドイツ人」というものであった。

この講演の中でマンは、ナチスのドイツはたしかに悪いドイツではあったが、ドイツには善いドイツとしての側面もある、というようなことを言いながらも、悪いドイツと善いドイツとを区別することはできない、といって、ドイツを免責しようとする動きに釘をさしている。そしてドイツの悪い側面が、どのようにして形成されて来たか、ロマン主義の横行とかルターの宗教改革にまでさかのぼって分析する。その上でマンは、悪いドイツと善いドイツをあわせて、ドイツの現実を認めたうえで、今後どうしたら世界にとってよい隣人になれるのか、それを考えなければならない、と述べた。マンによれば、悪いドイツはドイツ人が国家を持つことによって生まれるのだから、悪いドイツを自ら清算するには、国家というものを消滅させ、ユダヤ人のように国を持たない民族として、世界中に散らばったほうがよい、というような極端と思える提案をしている。マンにとっては、善いドイツをもっともよく体現しているのはゲーテであるが、そのゲーテのよいところは、ドイツ的な偏狭さを嫌い、コスモポリタン的な開放性を重視したところにあった。そのゲーテにならって、ドイツ人は、ナショナリズムに走るのではなく、コスモポリタンになるべきだというのが、この講演の眼目であった。

このマンの言葉は、ドイツにいる人々にも聞こえたようだ。ドイツにいる人々にとっては、いかにしてナチスの時代を清算し、ゲーテの精神にもどるかということが課題だったが、それをマンがわかりやすく言ってくれたのだった。そこでドイツ人たちは、ゲーテの生誕二百年を記念する行事を行い、そこにマンを講演者として招いた。その場でマンは、「ゲーテと民主主義」と題する講演を行ったが、その趣旨は「ドイツとドイツ人」とほぼ変わらぬものだった。その講演を直に聞いたドイツ人たちは、民族としてのドイツ人を否定されたような気持ちになったらしく、極めてシニカルな反応を示したそうである。

マンの他にも、亡命先からナチス時代のドイツを非難する知識人は多くいた。たとえばヘルマン・ヘッセである。ヘッセはスイスに亡命していたが、戦後ドイツ人たちからドイツに戻って来てほしいと要請された時に、それを断った。その理由というのは、ナチス時代には誰ひとり、ユダヤ人の妻をもつ自分をかばってくれるものがいなかった。そんな連中から、ナチス時代の反省を十分にしないままに、いまさら返って来いと言われても戻る気にはなれないと言って、ドイツ人が本当に反省していないことを批判したのだった。そうしたヘッセの批判にも、大方のドイツ人はシニカルな視線を投げた。かれらとしては、自分たちが一番苦しい思いをしている時に、ヘッセをはじめとする亡命者たちは、安全な外国で言いたいことを言っていたに過ぎないという、怨念のような気持ちが強かったらしいのである。

マンやヘッセは文学者だったが、社会科学者にもドイツの抱えている問題を批判的に追及する動きはあった。アドルノやホルクハイマーを中心としたアメリカへの亡命者たちだった。かれらは、マルクーゼも含めて、フランクフルト大学を拠点とするユダヤ人研究者グループだった。フランクフルト大学は、20世紀に設立された新しい大学で、ドイツの伝統的な大学とは異なって、ユダヤ人にも門戸を開いていた。そんなことからこの大学は、ドイツのユダヤ人研究者たちの拠点となり、そこから多くの学者を輩出した。その人々を称してフランクフルト学派と言う。この学派は、ドイツの戦後の知的空間を大きく支配したのである。

アドルノとホルクハイマーの共著「啓蒙の弁証法」は、ドイツのナチ化の究極的な原因を大衆社会の成立に求め、さらにその原因を、資本主義社会のメカニズムに求めた。資本主義社会は、キリスト教道徳が支配する社会であるから、かれらの批判はキリスト教道徳にも向けられる。このように、フランクフルト学派のドイツ批判は、キリスト教批判を視野にいれた文明論的な色彩を呈した。

同じくユダヤ人であったハンナ・アーレントも、彼女独自の立場から文明批判を展開した。彼女の主著「全体主義の起源」は、ドイツにおける全体主義としてのナチズムと、ソ連における全体主義としてのボルシェヴィズムを同列に置く議論であったが、彼女もまた全体主義の起源を大衆社会に成立に求め、その背景としてヨーロッパの文明が抱える問題点があることを指摘した。ヨーロッパの文明とはキリスト教文明のことである。そのキリスト教文明が、大衆社会の成立と全体主義の横行とをもたらした究極の原因である、というのが彼女の持論だったように思われる。

興味深いことには、ハンナ・アーレントは、ナチズムの共犯者であるハイデガーに身も心もまかせたことがある。迫害される立場の女性が、迫害する男に強い恋愛感情を持ったということは、20世紀におけるもっとも興味深い現象だったのではないか。ともあれ、迫害する立場にいたハイデガーは、ついに自分のナチスへのかかわりを反省して見せることはなかった。1935年に主張していたことを、1956年になってもあいかわらずそのままの形で主張し続けたのである。そういう点ではハイデガーは、筋金入りのドイツ人であったと言えなくもない。



HOME日本とドイツ次へ






作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2008-2020
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである