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戦争責任、東京裁判:日本とドイツ


ニュルンベルク裁判は1945年11月20日から1946年10月1日まで開催されたが、東京裁判(極東国際軍事裁判)は、それよりやや遅れて、1946年5月3日から1948年11月12日にかけて行われた。前者が10か月ほどのスピード裁判だったのに比べ、こちらは二年半をかけている。それだけ慎重だったかといえば、かならずしもそう断言できない。しかし、ニュルンベルク裁判の教訓がある程度生かされているとは考えられる。そのもっとも顕著なものは、訴追対象となる罪状を、ニュルンベルク裁判が採用したもの、つまり平和に対する罪に特定したことである。そのため、東京裁判はA級戦犯を裁いた裁判という特徴を強くもった。

ニュルンベルク裁判では、平和にたいする罪よりも人道に対する罪のほうが焦点化された。ナチスの行ったホロコーストという残虐行為が、あまりにも大きなインパクトを持っていたからである。この裁判で死刑判決を受けた被告は、いずれも人道に対する罪が死刑の決め手となっている。それに対して東京裁判では、日本の指導部が、ナチスの犯したような非人道的な残虐行為を、大規模に組織的な形で行ったとは認定できず、したがって人道の罪をもとに死刑判決を受けた者は限られた。南京事件における残虐行為の責任を問われた松井石根を除けば、死刑判決を受けたものはいずれも、戦争を開始した責任、つまり平和への罪を主に問われたのである。そんなこともあって東京裁判は、ニュルンベルク裁判以上に、戦勝国による敗戦国への報復といった色彩を強めることとなったのではないか。そんなわけで、この裁判に対する批判的な見方は、国の内外で多い。

ここで被告人の内訳をみると、訴追された28人のうち、精神障害や死亡が原因で判決を受けなかった3人を除いて、25人が有罪になった。彼らの訴追理由には、南京事件の責任を問われた松井石根をのぞけば、すべて戦争についての共同謀議があげられている。つまり、日本の起こした戦争を犯罪的な侵略戦争と定義したうえで、その侵略戦争を指導したことが平和に対する罪に問われたわけである。その罪の中で、もっとも程度の重いもの、つまり東条などの最高責任者が、戦争の責任を取らされて死刑判決を受けたという形になった。要するに、敗戦国の指導者が、戦争を起こした責任を一手に取らされたと言える。ちなみに死刑判決を受けた者は、松井を含めて7人、終身刑が16人、有期刑が2人であった。

東京裁判における法廷の構成には多少の工夫が見られた。たとえば、交戦国ではないインド出身の法律家が判事に加わったことなどであり、これはドイツとの交戦国であった米英仏ソの出身者が判事と検事を独占したニュルンベルク裁判とは大きな違いであった。それを反映するかのように、判事のなかには被告人の無罪を主張するものもあった。全員が報復的な意図を隠さず、厳しい姿勢で臨んだニュルンベルク裁判の法廷のあり方とは、多少趣を異にしていたといえるのではないか。

東京裁判をめぐる言説としては、児島襄の研究書「東京裁判」とか、小林正樹の映画「東京裁判」が有名であり、日本人の東京裁判についての見方に大きな影響を及ぼしたと思われるのであるが、これらはいずれも、東京裁判が抱えている正統性の問題に疑問を投げかけている。とはいいながら、日本の戦争指導者たちにも厳しい目を向けているといった点で、この問題についての日本人のアンビバレントな気持ちを代弁しているようなところがある。

なお、日本の指導者の戦争責任を考える際に、当然天皇の戦争責任が問題となるが、昭和天皇は訴追を免れた。それにはマッカーサーの意向が強く反映していたといわれ、またアメリカ政府もマッカーサーと同じ意見であった。マッカーサーは、対日占領が予想以上に円滑に行われたのは、天皇の存在が決定的な働きをしたおかげだと認識した。そこで、日本を統治するうえで、天皇は非常に役に立つ、その天皇の政治的影響力を利用しない手はないと考えるにいたった。そういう考えが、東京裁判の訴追対象から天皇を除外することにつながった、と言えるのではないか。

昭和天皇自身も、自分の政治責任をなんとか逃れようと努力した形跡がある。「昭和天皇独白録」を読むと、自らの戦争責任をなんとか逃れようとする昭和天皇の意思が伝わって来る。もっともマッカーサーは、そんな天皇個人の意思とはかかわりなく、純粋に政治的な判断から、天皇の訴追をやめたのだと思う。ともあれ、天皇の戦争責任が問われなかったことで、日本人の戦争責任をめぐる議論は、とかく曖昧なものになった。最高責任者である天皇が責任を負わないのであるから、その下にいた政治指導者が、どういうわけで戦争責任を負わされなければならないのか、その理屈が曖昧になるのは避けられなかった。ということは、日本人は、形式の上では戦争責任を受け入れたが、実際には、それを曖昧にしたまま今日まで来たというのが実際のところではないのか。心から戦争責任を認めないという態度は、被害を与えた国に対して、心から謝罪しないということにつながる。日本の政治指導者は、近隣諸国に向って、戦争による被害について一度もまともな謝罪を行ったことがないし、また、近隣諸国と仲良くしようとする意志も持たないようである。その代りに、形式的に屈服した戦勝国たるアメリカに、いまだに屈従して恥じないというメンタリティをもっている。

なお、従来通りの戦争犯罪、及び人道に対する罪については、BC級戦犯裁判という形で行われた。もっとも人道に対する罪(C級戦犯事案)が日本人に適用された例はごくわずかで、ほとんどはB級戦犯、つまり従来型の戦争犯罪が裁かれたということである。裁いたのは日本によって被害を受けた八か国で、5700人の日本人が裁かれ、そのうち死刑判決を受けたのは984人、実際に死刑を執行されたのは934人であった。死刑判決を受けた者の内訳としては、下士官が最も多く、下級の将校がそれに続く。ということは、作戦に責任のある上級将校ではなく、現場の直接的な指揮官たちが責任を問われたということである。また、死刑判決を受けた者の中には、冤罪の明らかなものもあり、裁判の不公平さも問題となった。

BC級戦犯裁判は、日本が侵略した当事国ではなく、その宗主国が行う場合が多かった。宗主国は、現地人の被害にはあまり関心をよせず、宗主国の国民が受けた被害の救済に熱心だったといわれる。また、宗主国が戦犯裁判を主導したのは、現地人による私的報復に歯止めをかける意図も含まれていたといわれる。



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